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25年ぶりV、カープ投手陣の手本となった黒田博樹の原点。恩師にしたためた野球人生を象徴する言葉

ベースボールチャンネル 9/11(日) 11:00配信

高校時代は決して目立たず

 広島が四半世紀ぶりにリーグ制覇を果たした。
 その優勝を決めた10日に先発投手を務め、勝利投手になったのが昨季メジャーから復帰した黒田博樹だった。

 これまでもたくさんのメディアによって「男・黒田」について語られてきたが、彼がまだ陽の目を浴びなかった頃を知るのが近畿大野球部の監督を務める田中秀昌氏だ。

 かつて田中氏に、男・黒田について話を聞いたことがある。
 熱血漢としても知られる田中監督は、黒田の高校時代についてこう振り返る。
 
「0というたら言い過ぎかもしれませんけどね、正直、プロに行くとは思わなかったですよ」

 上宮高校時代は3番手投手。タレントがそろっていたチーム事情、黒田は目立つ存在ではなかったというのが正直なところだった。

 黒田が高校時代に所属した上宮高は当時、最盛期にあった。
 元木大介(元巨人)、種田仁(元中日)らを擁して、1989年のセンバツ大会で準優勝。上宮の評判は年を追うごとに上がり、中学生の逸材が入学してくるようになっていたからである。

「黒田の1個上の世代には薮田(ロッテ)、中村(阪神など)がプロに行っていますけど、黒田の同級生にもスター選手が4、5人いたんですよ。下級生の頃から試合出ているようなやつらがね。一方、黒田は自分から入ってきた選手でした。上宮でやりたいと。でも、正直に言いまして、眼中にない選手でした」

もしもセンバツに出場できていたら……

 田中は黒田が下級生の時はコーチ、最終学年の秋になった時から監督を務めることになったが、チーム結成時の黒田の扱いはやはり3番手の扱いだったという。

「溝下、西浦(元日本ハム)という二人の投手がいました。高校野球はピッチャーで決まるやないですか。だから、彼らには負担がかからないように公式戦に温存して、練習試合では黒田が投げる。黒田には『クロチャンスやぞ、結果を出せ』とはっぱを掛けましたけどね、でんかったんですよ」

 当時の黒田は、フォーム的にはバランスがよく、ストレートにキレがあった。ところが、コントロールが悪く、武器になる変化球がなかった。だから、どうしても、試合で登板させる機会としては、練習試合しかなかったのである。

 田中は続ける。

「練習試合でも結果が出なかったから、いつも、そのたびに、『ベンチ出ろ、走っとけ』といいましたね。ライトのポールからレフトのポールまで走っているのはベンチから確認できますから。ずっと走らせていました」

 ただ……と田中は、今思えばと感慨深くこう回想している。

「クロはそんな扱いに、腹が立ったと思いますけど、でもね、一度として嫌そうな顔をしたことがないんです。タフでした。どこかが痛いといったことはありませんでしたし、練習を休まず、愚痴は言わない、言い訳は絶対にしなかった。そういった人間的な部分が優れていたように思います。何事に対しても一生懸命する。授業にも僕は行きましたが、高校生の多くは表裏の顔がありますけけど、クロは変わらなかった。何事も一生懸命やる、すごく素直、そして、向上心があったと思います」

 その黒田が一度だけ、陽の目を浴びたときがあった。

 2年秋の大阪府大会をぶっち切りで優勝。センバツ切符を掛けた近畿大会でのことだ。二人の投手の調子が下降気味になってきたところ、黒田の状態が上がってきたのだ。常日頃から「クロみたいな選手は結果が一番の良薬」と考えていた田中は、準々決勝から黒田の起用を決断する。近畿大会の準々決勝の6回から登板させると、ピシャりとと抑えた。

 さらに準決勝も、先発は溝下でいったが、限界が近づくと6回くらいからまた黒田がリリーフ。これも抑えた。さらに決勝は、3回からのロングリリーフ。初めて公式戦で3試合に登板、黒田は陽の目を見たのだった。

 ところが、不運なことが起きた。チーム内の不祥事が発覚したのだった。春の甲子園出場は絶望。黒田はせっかくのチャンスをつかみ切ることができなかったのである。その後は、公式戦で少し投げただけで、夏の甲子園大阪大会も、上宮は敗退。黒田は高校野球を終えた。

「センバツに出場できていたら、クロの人生が変わっていたかもしれないですね。高校野球が終わって進路相談の時、大学で野球をするのはやめておこうかくらいまでの話になったんですけど、好きな先輩が甲南大にいてたので、そこに行こうかと。ところが、クロのお父さんが元プロ野球選手やったんでね、強いチームに行ってやれということで、専修大に行ったんです」

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最終更新:9/11(日) 11:00

ベースボールチャンネル

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