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般若心経 「般若波羅蜜多」という言葉の解釈

NEWS ポストセブン 9/13(火) 7:00配信

 2014年10月に最も進んだステージのすい臓がんが発見され、余命数か月であることを自覚している医師・僧侶の田中雅博氏による『週刊ポスト』での連載 「いのちの苦しみが消える古典のことば」から、『般若心経』の「般若波羅蜜多」という言葉の解釈を紹介する。

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 本連載の最初の6回はお釈迦様の言葉を書きました。その後の10回は西洋の言葉を書きました。今回は再び東洋に戻って、『般若心経』から「般若波羅蜜多」という言葉の解釈をします。

 近代科学の領域では、曖昧さが無いように言葉を一義的に定義して用いるので、「言葉の解釈」ということはありえません。古典研究では、古い言葉を読み解くので、言葉の解釈が必要です。解釈とは追体験です。

 よく「梅干しが酸っぱい」という言葉の解釈が例に挙げられます。梅干しを食べたことがない外国人に「梅干しが酸っぱい」を追体験してもらうには、「レモンに塩をかけてしゃぶったように」と譬喩(ひゆ)を用いて説明します。すると、口の中が酸っぱく塩っぱくなって、解釈が可能になります。古典に譬喩が沢山書かれているのは、解釈を補助するためなのです。

 譬喩には、「何々の如く」と喩えを直接示す直喩のほかに、「筏で彼岸に渡る」というような隠喩があります。ここでの「筏」は仏教を指し示しています。隠喩は西洋の多くの言語でメタファーといいます。メタ(超えて)ファー(運ぶ)です。まさに「筏」は、苦から楽へ、大河を超えて人々を運ぶ仏教のメタファーなのです。

 古代インド哲学の課題は「自分が死ぬという苦」でした。お釈迦様は「自分」という執着の要素を空っぽにすることで「死ぬという苦」を解決しました。この状態を「無執着」といいますが、自分に執着しないのであって、他人の不幸にも無執着という意味ではありません。お釈迦様は「筏の譬喩」を用いて「無執着」を示しました。

 たとえば、旅人が大河に行き当たりました。河の此岸は苦に満ちていて、彼岸は楽の世界でした。旅人は筏に乗って河を渡りました。彼岸に到達したなら、筏(仏教)をどうすべきでしょうか。旅人は筏を捨てて旅を続けるべきなのです。自己執着を捨てる仏教は、仏教自身に執着しないのです。これが無執着という知恵(般若)の完成(波羅蜜多)です。

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最終更新:9/13(火) 7:00

NEWS ポストセブン

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