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山下敦弘と李相日の“奇妙な一致”ーー両監督の15年から探る、日本映画の分岐点(中編)

リアルサウンド 9/13(火) 12:00配信

 新作『オーバー・フェンス』『怒り』が奇しくも同日に公開される山下敦弘と李相日は、2001年にそろって監督デビューするとすぐさま高い評価を受け、そのキャリアを順調に軌道に乗せていった。

 初監督作『どんてん生活』につづき03年『ばかのハコ船』、04年『リアリズムの宿』でも冴えない男の日常を切りとった山下は、この“童貞三部作”で早くも熱狂的な支持を受ける。一方、初監督作『青 chong』で朝鮮高校に通う男子高校生の青春を描いた李は、PFFスカラシップ作品として制作した第2作『BORDER LINE』を経て、いきなりメジャー作品の監督に抜擢された。村上龍の原作を映画化した東映製作の青春ドラマ『69 sixty nine』である。04年のことだ。

山下「李さん、『69 sixty nine』って予算どれくらいだったんですか?」
李「3億近いですよ」
山下「うわー!(笑)『BORDER LINE』って……」
李「2500万ぐらいかな。だから『69 sixty nine』は10倍ちょっとですね。僕がすごいというより、選ぶ方がどうかしてるというか(笑)」

 山下と李がはじめて顔を合わせた2011年の雑誌『EYESCREAM』におけるやりとりだが、大学の卒業制作作品だったデビュー作の公開からわずか3年で、製作費3億円近い作品を任された李の駆け足ぶりがよくわかる。

 『69 sixty nine』の脚本は宮藤官九郎。宮藤は初の連続ドラマ作品となる00年『池袋ウエストゲートパーク』で注目を浴び、その後売れっ子脚本家として、ドラマに映画に多忙を極めていた。彼が映画で初めて存在感を示したのは、金城一紀による直木賞作品を映画化した01年の東映作品『GO』だ。監督には長編デビューから間もない行定勲を抜擢し、日本アカデミー賞最優秀監督賞ほか8部門を制覇した成功体験が、宮藤脚本による青春小説の映画化という企画に再び東映を突き動かしたのだろう。となると、行定のときと同じく新鋭の抜擢も必須だ。そこで李に声がかかった。『青 chong』で見せた決して作家主義的でない、青春劇を扱うオーソドックスな手さばきが買われたためである。予算規模が一気に膨らんだ大作で李は安定感を示した。彼は独自の地歩を築きはじめる。

「ケンとアダマのイメージは僕の中で『明日に向って撃て!』のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードだったんです。(中略)二人には『明日に向って撃て!』のDVD も見せました」

 雑誌『キネマ旬報』のインタビューによれば、『69 sixty nine』を撮影する際、李は主人公を演じた妻夫木聡と安藤政信のふたりに『明日に向って撃て!』のポール・ニューマンとロバート・レッドフォードを重ねていたという。同様に山下の“童貞三部作”にも彼の大好きなアメリカン・ニューシネマの影響は色濃い。

「70年代のアメリカ映画が好きなんですけど、男2人の話が多いんですよね。『真夜中のカーボーイ』とか。まわりの人たちがいなくなって最終的には2人だけになって、すごく寂しいんだけどこの2人はずっと繋がっている、という関係が憧れなんです」

 デビュー直後、山下が雑誌『SWITCH』のインタビューでこう語っていたとおり、“童貞三部作”は基本的に男たちの奇妙な関係性を下敷きにした物語だった。だから彼が少女たちの青春音楽劇『リンダ リンダ リンダ』を監督することになったとき、一部の人たちは驚きを隠さなかった。山下に少女が撮れるのか?

 『月光の囁き』『害虫』を手がけたプロデューサーの根岸洋之は、ブルーハーツのコピーバンドに取り組む少女たちの物語を企画し、監督の人選を進めていた。何人かの若い才能に当たりをつけるなか、『リアリズムの宿』のテンポ感や滑稽味にセンスを感じ、白羽の矢を立てたのが山下だった。脚本には大阪芸術大学の仲間で、ともに初期作を作りあげてきた向井康介が加わる。05年に公開された『リンダ リンダ リンダ』は、文化祭の数日間を舞台に「すごく寂しいんだけど」「ずっと繋がっている」ような4人の少女たちの関係を映しだす、紛れもない山下作品になった。山下の活動の幅は、これを機に広がっていく。

 『リンダ リンダ リンダ』の出演者をキャスティングする過程で、山下はまだ名を馳せる前の10代の女優たちに数多く会った。惜しくも出演に至らなかったそんな少女たちのひとりが、エンドロールにもクレジットされた木村カエラであり、また別のひとりが同年に公開された『パッチギ!』で絶賛を浴びた沢尻エリカである。井筒和幸が監督した『パッチギ!』は、この年のキネマ旬報ベスト・テン日本映画1位に輝くほか国内映画賞でたくさんの賞を獲得したが、この作品を製作したのがシネカノンの代表だった李鳳宇だ。思えばこのシネカノンの、李鳳宇の栄枯盛衰こそ、00年代からいまに至る日本映画の激動を、もっともよく象徴する出来事だったといえる。

 1989年にシネカノンを設立した李鳳宇は、93年に初プロデュース作品『月はどっちに出ている』を世に送りだし、日本映画の製作に精力を傾けだす。00年『シュリ』、01年『JSA』とつづけて配給した韓国映画を大ヒットに導き、その後の韓流ブームに先鞭をつけたのもシネカノンの功績だ。李鳳宇がプロデュースする作品は、それが原作をもとにするものであっても、なんらかの脚色を施したオリジナル作品として成立するものが多かった。例えば『パッチギ!』は『少年Mのイムジン河』という70ページ弱の回想記が原案だが、そこに李鳳宇自身の朝鮮高校時代の経験などを肉付けして、井筒と脚本家の羽原大介の手により骨太なストーリーに仕立てあげられている。

 90年代後半以降、国際映画祭で高い評価を受ける作家主義の作品と、『踊る大捜査線 THE MOVIE』をはじめとするテレビ局製作のエンターテイメント作品が両輪となって、日本映画はかつてそれを観なかった層にまで広く浸透していった。だが00年代に入り、海外の評価がそのまま国内の興行成績と直結しないことが徐々に露呈する。一方、シネコンの普及を背景に、テレビ局が製作するようなメジャー作品は大規模な宣伝との相乗効果で、大量の観客を動員することに成功した。李鳳宇が狙ったのはその中間だった。生粋の映画好きをうならせ、同時に年数本しか映画を観ない人たちをも取りこむ、インディペンデントとメジャーの間に立つポジショニング。世界的に見ても、20世紀フォックスの傘下にあるフォックス・サーチライトやパラマウント映画の一部門だったパラマウント・ヴァンテージが、大作ほどの規模でない優れた作品を製作するなど、インディーとメジャーの中間にはもっとも創造的で、もっとも実り多い沃野が広がっていると思われていた。

 ある日、李鳳宇がプロデューサーの石原仁美から持ちかけられたのは、常磐ハワイアンセンターの実話を映画化する企画だった。規模縮小に追いこまれた常磐炭鉱が新たにレジャー施設を作り、仕事を失った炭鉱夫の娘たちがハワイアンダンサーとして夢をかなえる、昭和40年の物語だ。脚本の開発に3年の月日を費やし、ようやく監督の人選に取りかかろうとしていたとき、李鳳宇は以前から製作現場を紹介したり、02年サッカー日韓ワールドカップのドキュメンタリーで仕事を依頼したりしていた若い映画監督、李相日の名を思いつく。李相日はこの意欲的な題材を得て、炭鉱町の過酷な様子をきっちりと描写しながら、フラダンスに希望を託す少女たちの青春をエモーショナルに刻みつけた。2006年に公開された彼の長編5作目『フラガール』は、独立系作品としては異例の172スクリーンからスタートし、ロングランをつづけた末に15.2億円の興行収入を叩きだすことになる。なおかつキネマ旬報ベスト・テンで日本映画1位に選ばれ、日本アカデミー賞では最優秀作品賞、最優秀監督賞を含む計4部門を制覇した。

「原作もなく、大手映画会社の配給作でもなく、テレビ局の出資もない映画が、空前の邦画ブームだった年の頂点に立ったことは意味があります。重くて古い扉が、いまやっと開いた感動を抱いています」

 日本アカデミー賞の授賞式で、製作者として舞台に立った李鳳宇はこう高らかに宣言したが、テレビ放送された特別番組ではこの様子がまるまるカットされてしまっていた。ともあれ、06年は興収において、85年以来21年ぶりに日本映画のシェアが海外映画を上回る年になった。そんな一年を代表したのは、インディペンデントとメジャー、作家主義とエンターテイメントの狭間で作られた『フラガール』だった。

 00年代、シネカノンと同じ独立系のスタンスで、新しいテーマ性やスタイルを持つクオリティーの高い日本映画を多く生みだしたのがアスミック・エースである。アスミック・エースの前身となるアスミックは、ミニシアター・ブームの決定打となる『トレインスポッティング』を96年に配給し、もう一方の前身であるエースピクチャーズは製作した『失楽園』『リング』などの日本映画をつづけざまにヒットさせていた。両社が合併したアスミック・エースはその双方の強みを生かして、単館系を中心とした海外映画の配給と、そのような海外映画の観客にも響く斬新な日本映画の製作をおこなっていく。

 02年に公開された『ピンポン』は、松本大洋原作の忠実な再現、『GO』が高く評された宮藤官九郎の脚本、CGによる対戦シーンの演出、SUPERCARや石野卓球の楽曲を用いた音楽など、そのプロダクションワークにおいて画期的な作品だった。渋谷シネマライズを中心に全国96館で拡大公開されたこの作品が興収14億の大ヒットを記録すると、翌03年には『ジョゼと虎と魚たち』がシネクイントの歴代3位となる興収をあげ、アスミック・エースのブランド力は他社と一線を画したものになる。そんな『ピンポン』『ジョゼと虎と魚たち』をプロデュースした小川真司が、『リンダ リンダ リンダ』の根岸とともに、山下の07年作品『天然コケッコー』のプロデュースに当たった。くらもちふさこの原作を『ジョゼと虎と魚たち』の渡辺あやが脚本にした青春恋愛劇は、田舎町ののどかな風景が愛おしく、そこで暮らす少女や少年たちの表情がみずみずしい一作だ。山下はこの作品で報知映画賞監督賞を史上最年少で受賞した。

 しかしシネカノンやアスミック・エースのような独立系映画会社が、継続的に高いクオリティーの作品を製作するのは次第に難しくなってきていた。小川は07年の雑誌『創』でのインタビューでこう話している。

「今や映画の製作費もものすごく上がっていて、おそらく今後は『メゾン・ド・ヒミコ』や『天然コケッコー』のような内容の作品をつくるのはむずかしくなってくるでしょう。3年前に比べても製作費は高騰していますから、邦画のクオリティ・フィルムをきちんとつくろうと思うと、それなりのお金がかかるようになってきています。それに加えて、ビデオのレンタル市場が落ちているので、なかなかマーケットサイズと製作費がアジャストするのは難しい」

 シネコンのさらなる普及により、ミニシアターを中心に全国へ拡大するミニチェーンと呼ばれる興行形態が増え、それまでインディペンデントとメジャーの狭間で作られていたような作品は、少しずつメジャー寄りの志向性を持ちはじめる。一方、ささやかな世界のささやかな物語を紡ぎだすような作品は、本来の意味で単館系と呼ぶにふさわしい、小規模なスケールでの製作を余儀なくされていった。インディペンデントとメジャーの二極化に拍車をかけたのは、08年のリーマン・ショックだろうか。

 そもそも莫大な資金を投じる映画製作は、どこまでいってもリスクから逃れらない。だからリスクを分散する製作委員会方式が発展したのだが、大手各社は製作も配給も、興行も一貫して経営する日本映画の特殊な事情を背景に、シネコン全盛の時代が訪れた00年代以降、リスクの多い製作よりリスクの少ない興行にフィットした会社が勝ちを収めるようになっていった。そんな時流のなか、李鳳宇のシネカノンも渋谷や有楽町などに直営の映画館を持ち、興行の基盤を固めたうえで、製作も配給も担う準大手の地位を目指すようになる。しかし――。

 10年、シネカノンは経営破綻。負債総額50億円は、新たな製作資金の調達法としておりしも注目を集めていた映画ファンドの失敗から、雪だるま式に膨らんだものだった。

「日本映画がダメになったのはなぜか? 答えは簡単。自分の金で映画を作る人が少なくなったからである。道楽でも商売でも自分の資金で映画を製作する者は決して金を捨てるような真似はしない」

 これは李鳳宇が雑誌『Title』に連載していた00年のコラムの一節である。自分の金で映画を作る者が少なくなった時代に、自分の資金で映画を製作しようとした希代のプロデューサーは、有象無象の資金がより合わさったファンドに足もとをすくわれたのだ。ちなみに彼の連載コラムのタイトルは「映画は博打だ!」。徳間書店、大映の徳間康快を「最後の映画博徒」と呼んだ李鳳宇は、一方で安定したビジネスを追求しながら、やはりみずからも「映画博徒」として映画の夢に沈んだのかもしれない。念のため付け加えておくと、彼はいまも映画の仕事をつづけ、老境に差しかかった男の夢と悲哀を描く『グレート・ビューティー/追憶のローマ』などの配給に携わっている。

 映画を製作する人たちにとって、必ずしも幸福とは言えない時代が訪れようとしていた。山下と李相日のふたりも、『天然コケッコー』『フラガール』のあと、新作を世に出すのに数年の歳月を要することになる。山下が次作『マイ・バック・ページ』を発表するのは5年後、李が次作『悪人』を発表するのは4年後のことだ。でもすべてが暗転したわけではない。

 『フラガール』の監督に起用された李は、キャスティングを進める際、ある女優の名を真っ先に挙げて、実際に彼女の代表作となる映画を生みだした。蒼井優である。そしてフラガールの中心となって踊る少女を演じた彼女は、ちょうど10年後、山下の『オーバー・フェンス』で不思議な求愛のダンスを踊る女に扮し、その代表作を更新する。次の時代につながる萌芽も、このとき確かに顔をのぞかせていた。

※引用
『EYESCREAM』2011年1月号
『キネマ旬報』2004年7月15日号
『SWITCH』2001年11月号
『パッチギ!的 世界は映画で変えられる』李鳳宇
『創』2007年7月号
『Title』2000年7月号

門間雄介

最終更新:9/13(火) 18:28

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