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アベノミクスの限界が見えて 日本は「脱成長主義」の道を選ぶべきだ――佐伯啓思(京大名誉教授)

デイリー新潮 9/13(火) 5:50配信

 アベノミクスにはバラ色の未来が待ち受けている――。株高が収まった今、そう思っている人は決して多くないだろう。かといって、ではどうすればいいのか道筋は見えてこない。日本の指針はどこにあるのか。京大名誉教授の佐伯啓思氏が、「成長主義」に警鐘を鳴らす。

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〈GDP算出めぐり論争〉

 新聞報道(8月26日付産経新聞)によれば、日銀と内閣府が戦っているそうです。なんでも、日銀が国内総生産(GDP)を従来とは異なる方法で試算したところ、過去10年の実質成長率が、これまでの内閣府の公表値0・6%から1・2%に上がったのだとか。

 0・6%と1・2%。2倍とはいえ微々たる差にも思えますが、とにかく経済成長率を少しでも高めたい、高成長こそ「善」であるとの思想が透けて見えます。

 成長率は高ければ高いほどいい。多くの人がそう信じ込んでいるように感じられます。実際、先の参院選に際しても、自民党はアベノミクスのエンジンを最大限にふかすと謳(うた)い、野党もアベノミクスを批判こそすれ、民進党が「分配と成長」と訴えたように、アベノミクスは目的を達し得ていないと指摘するに留まっています。つまり、与党も野党も根は同じで、成長率を高めることに重点を置いているわけです。

 しかし、果たして本当にそれでいいのか。成長、成長と唱え続け、私たちはどこまでも上り続けなければならないのでしょうか。私は、そうは思いません。この数十年、成長を求めるあまりに、構造改革なるものが進められ、私たちは「幸せ」になったでしょうか。地方は疲弊し、格差が広がり、教育は崩壊。成長を求めた結果、日本社会はこうした問題を抱えてしまった。

 グローバル競争の波に飲み込まれ、私たちはそれを勝ち抜くための部品、歯車として扱われているかのようです。グローバル戦線で勝利するために「1億総活躍」が掲げられていますが、活躍・貢献できない者は、あたかも「落ちこぼれ」として見捨てられていく感すら漂っています。競争によって私たちは他人を蹴落とさなければ自分の生活が確保できない時代を生かされている。世界で勝ち抜くための「価格破壊」は「雇用破壊」に至り、いずれ「人間破壊」に行きつくのではないかとの危惧を覚えます。

 どこぞの野党みたいな物言いになってしまいますが、やはり「人間が第一」です。にも拘(かかわ)らず、現況は「人間」よりも「成長」が優先されている。私たちはなぜ、成長を絶対善の如く崇めるようになってしまったのか。それは、未だに「精神的な占領」を受けているからだと言えるかもしれません。

 日本の戦後経済史を振り返ってみます。1955年までは経済成長というよりも復興の時代にあたり、56年には経済白書に「もはや戦後ではない」というフレーズが登場するわけですが、70年代前半までの約30年間、日本は急速な勢いで経済成長を続けました。しかし、田中角栄が金脈政治によって失脚すると、日本人は一度、立ち止まろうとします。あまりにカネ、カネと言いすぎたのは過ちだったのではないかと。モノより心を大事にすべきではないか、肝腎なのは成長の「率」より「質」ではないかという議論が勃興したのです。

 その象徴が78年に首相に就任した大平正芳の「田園都市構想」でした。高度成長路線を捨て、豊かな田園に覆われた日本をもう一度目指そうというものです。

 海外でも、英国の経済学者シューマッハーが73年に発表した『スモール・イズ・ビューティフル』が大ベストセラーとなり、拡大路線との決別が注目されました。ローマクラブも、72年に資源問題から見た「成長の限界」を発表。それにあわせるようにして日本では高度成長時代が終焉を迎えました。成長の季節は過ぎ、これからは新しい時代に入っていくと、世界的にも思われていたのです。

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最終更新:11/25(金) 18:11

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