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絶対安静の夏目漱石、妻に付き添われて大阪の病院から帰京する。

サライ.jp 9/14(水) 16:30配信

夏目漱石、妻に付き添われて大阪の病院から帰京する。【日めくり漱石/9月14日】

今から105 年前の今日、すなわち明治44年(1911)9月14日の深夜零時過ぎ、44歳の漱石は妻の鏡子とともに名古屋停車場に到着した。前夜7時23分大阪・梅田発の急行寝台車で東京へ帰る途中の夫婦であった。

漱石が関西へ赴いていたのは、大阪朝日新聞主催の講演会のためだった。明石、和歌山、堺、大阪の各地を回ったあと、胃痛で倒れ、吐血し、急遽、大阪市内の湯川胃腸病院に入院した。

入院した漱石は、絶対安静を言い渡された。

前年には伊豆・修善寺で大量の吐血をして、生死の境をさまよった身。万一のことがあってもおかしくはなかった。鏡子も連絡を受け、急いで東京から駆けつけた。

それから4週間近い入院生活を経て、汽車で移動することができるほど回復し、いまようやく東京へ帰ろうとしているのであった。

漱石自身は、入院3週間ほど経過した頃にはかなり体調が復した手応えを感じていた。薄い粥に豆腐と麸のおかずがつく程度だった食事にも、数切れの刺身がつくまでになっていた。それでも、医者や周囲の者たちが心配し、無闇に動くことを許さなかった。

漱石は早く東京に帰りたくてじれったいような思いを抱えつつ、3階の病室の窓からぼんやり外の景色を眺めて暮らしていた。窓からは、大坂城の櫓が見え、いろいろな西洋館が見え、山が見えた。

《蝙蝠の宵々毎や薄き粥》
《灯を消せば涼しき星や窓に入る》

といった俳句は、この入院中に漱石によって詠まれたものだった。

寝台車に揺られるうち発熱したらしく、安眠することができないまま、名古屋に着いた時には漱石はぐったりしてしまっていた。鏡子もそんな病人を気遣ってあれこれ面倒を見るうち、疲労が募っていた。

名古屋停車場には、鏡子の妹の夫で建築家の鈴木禎次がかけつけていた。禎次はこの頃、名古屋高等工業学校で教鞭をとっていたのである。心配して停車中の列車内に見舞いにやってきた禎次に鏡子が応対し、ひとしきり礼を言ったあと漱石に取り次いだ。だが、漱石は口をきくこともできない状態で、ただ黙って横になっていた。

東京の新橋停車場に列車が着いたのは朝9時。そこには門弟の鈴木三重吉や松根東洋城らが迎えにきていた。彼らの顔を見ると、看病疲れとホッと気が緩んだのとで、鏡子もすっかり半病人のようなありさまになっていた。

■今日の漱石「心の言葉」
今日のひる刺身を四切食った。早く東京へ帰りたい(『書簡』明治44年9月8日より)

文/矢島裕紀彦

※夏目漱石ありし日々の面白エピソードを毎日お届け!「日めくり漱石」はサライ.jpで毎日連載中です。

最終更新:9/14(水) 16:30

サライ.jp