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『スーサイド・スクワッド』が悪役たちを“人間らしく”描いた理由ーーデヴィッド・エアーの真意は?

リアルサウンド 9/15(木) 6:10配信

 経済の中心地で映画の街として名高いロサンゼルスに、強盗や殺人、売春・麻薬ビジネスなどがはびこる「全米で最も危険」と呼ばれている地域がある。建物の壁には落書きが目立ち、店の入り口や窓には防犯用の鉄格子がはめられている。『ワイルド・スピード』や『トレーニングデイ』の脚本を手掛けキャリアを高めてきたデヴィッド・エアーは、まさにその街で育ち、また軍務経験を経ることによって、映画作品のなかで描かれる犯罪や、血にまみれた暴力にリアリティを与えてきた。

 監督作である『エンド・オブ・ウォッチ』で、ロサンゼルスの警官がギャングと一対一の殴り合いをして、「なかなか根性あるじゃねえか」と互いを理解し合うように、それぞれに極限的な環境で生きる末端の人間たちに共通する、暴力的な価値観や仲間意識を、ハードなテイストで描くデヴィッド・エアーが、今回アメコミ映画の監督を務めたというのは、一見すると意外である。しかしその作品が、アメコミの悪役たちがチームを組んで、もうひとつの悪と戦うという内容の『スーサイド・スクワッド』だったというのは、ある意味では納得できる人選といえるだろう。

 本作の悪役チームに参加しているのは、DCコミックスの「バットマン」や「フラッシュ」に登場し、ヒーローによって倒され収監された人気悪役たちである。なかでも、百発百中の狙撃手「デッドショット」にドル箱俳優のウィル・スミス、ジョーカーを愛するマッド・ガール「ハーレイ・クイン」を、いまハリウッドで最もセクシーなマーゴット・ロビーが演じるなど、俳優の豪華さに目を惹かれてしまう。彼ら危険な凶悪犯罪者たちは、悪党の有効活用政策として、減刑を条件に、いや応なしに人の力を超えた悪と戦うための尖兵にさせられてしまう。政府にとっては、悪と悪に同士討ちをさせ、どちらもくたばってくれれば万々歳なのだ。

 本作でもわずかに言及されるが、アメリカ軍は第二次大戦時、実際にマフィアの協力を仰いだことがあった。旧世代のボスたちを次々に殺害することでマフィアのトップにのぼりつめた、アメリカ史上最大の犯罪者ラッキー・ルチアーノは、敵国からのスパイをあぶり出したり、イタリア攻略のためにマフィアの情報網を活用する「暗黒街計画」に協力し、さらに政府関係者に賄賂を贈ることで恩赦を与えられ、刑務所を出所することができたという。だが彼は政府の手引きによって、そのまま永久に国外追放となってしまう。

 それにしても、闇の世界の権力者までをもとことん利用し上前をはねようとする権力側のがめつさが、本物の悪人の上を行っているというのもおそろしい。このような非人間性を本作で体現しているのが、スクワッドをとりまとめる政府高官の女性「アマンダ・ウォーラー」である。彼女は悪役たちの体内に爆薬を仕込み、「ほらほら、戦わないと爆破させるよ」と脅しながら言うことを聞かせるのだ。彼女の歪んだ「正義」によって、意志に反して奴隷のように使い捨てられていく悪役たち。その悲壮さは、もはや悪人というよりは被害者のように見える。この逆転が本作の面白いところである。

 そこにあるのは、やはりデヴィッド・エアー監督の社会に対する実感であろう。兵士は死を覚悟して戦地に赴き、ダウンタウンで粋がる地元のギャングは、ある朝ハチの巣のように銃弾を撃ちこまれた死体で発見され、殉職した警官の家族は呆然とした表情でその遺体を見つめる。彼が共感し描こうとするのは、ヒーロー作品がテーマにするような正義や悪ではなく、このように前線で命を張っている人々への共感だ。その意味において、悪党を脅して操る人でなしのアマンダ・ウォーラーですら、前線に顔を出すことで、一定の共感が与えられているといえよう。

 本作は、一部で批判も浴びているという。それは、「彼ら悪党が悪党らしくなく、むしろ良い人たちのように見える」ということへの不満だ。おそらくここで期待されていたのは、悪党が自らの残虐性を発揮して、もっとのびのびと人殺しを楽しみ、はしゃぎまくる姿なのだろう。それは劇中の政府高官たちが望んでいた展開でもあったはずだ。しかし、デヴィッド・エアーが脚本を書き、監督した本作では、そうはならなかった。彼らの本当の姿は、ささやかな「普通の」幸せを求め、ときに自分の犯した罪に悩む「普通」の人間だったのである。

 多くの善良な市民の考える「悪」とは、自分の感性や性格とは完全に隔たりのある「異常さ」であろう。犯罪に手を染める人間と、そうではない人間に、本質的な違いが存在するのであれば安心である。だが、犯罪の多発する地域で生活をし、軍隊で人を殺す教育を受けたデヴィッド・エアーは、あらゆる人間が、いつでも「あちら側に行ってしまう」可能性があるということを理解しているのではないだろうか。

 彼の監督作『フューリー』は、第二次大戦での戦車に乗った兵士たちの戦いを描く問題作だった。この作品で最も違和感が残るのは、アメリカの兵士が、民家に隠れていた敵国の少女を、武力で脅してベッドに連れ込んでしまう場面だ。にも関わらず、この作品ではそのような蛮行をはたらいた兵士を、ときに善良な人間として描いてもいる。多くの映画では、そのような罪を犯す人間に共感を込めるなどということはあり得ない。そこには理想化されることも断罪されることもない、戦場におけるひとりの兵士の等身大の姿が、そのまま描かれているといえるのである。彼らはただ、命を張っているという一点において、映画の作り手に共感されている。それをどう評価するかは、観客自身に委ねられているのだ。

 『スーサイド・スクワッド』の悪役たちは、私利私欲による殺人を犯しているような凶悪犯であることに違いはない。だが同時に、彼らは家族や恋人を大切にし、仲間たちへの信頼も厚い。そういう価値観のなかで生きている。それこそが「悪党」の等身大の姿のひとつであるといえないだろうか。そして、そんな風に描かれる世界こそ、デヴィッド・エアーが眺めてきただろうロサンゼルスのひとつの「風景」なのである。

小野寺系(k.onodera)

最終更新:9/15(木) 6:10

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