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モノブライト出口博之の特撮自由帳(5)語りつくせぬ『シン・ゴジラ』の魅力を、今語る!「俺なりのシン・ゴジラ評」を聞いてくれ!!

おたぽる 9月15日(木)14時0分配信

 こんにちは、モノブライトのベース、出口です。
 全世界の特撮ファンが待ち望み、今後続く特撮史に深すぎる跡を残した『シン・ゴジラ』。ここ最近の特撮映画において類を見ない大ヒットの要因は、特撮ファンはもとより、これまで特撮怪獣モノ、ゴジラ映画を熱心に見ていない人の取り込みに成功したからだと思います。規格外の出演者の多さも話題になり、上映後の劇場で聞こえる会話で「あ、この人も出てた」「この人はどこで出てたっけ?」という部分もリピーター呼び込みの一助になっています。

 日本中を巻き込んだ大ヒットではありますが、ただ冷静に見ると公開直後の『シン・ゴジラ』の動員推移は、「全国民が待ち望んだ待望の大ヒット作」のそれではなく、熱心なゴジラファンや庵野監督ファンというマジョリティではない「一部のファン」が劇場につめかける映画、というものでした。「俺たちの好きなゴジラ映画最新作だ! うれしい!」

 ところが、中身がとんでもなかった。

 専門用語が飛び交う高速な会話、圧倒的なカタストロフィ、現実の日本が直面してきた危機に置き換えられるリアリティ溢れる場面、などなど。
 他にも「とんでもない要素」はある。まだまだある。初見では到底処理できない情報量が2時間に詰め込まれている。先ほど書いた出演者の多さも過剰な情報の一部。暴力的な情報量の多さを目の当たりにした特撮ファン、庵野監督ファン(エヴァンゲリオンファンも内包)は、全員もれなく「やられて」しまうのです。どのような状況か説明すると「うぐぐぐぐぐ……」とうずくまった後に「……うわあああああ!」と、突然闇雲に全力で走り出したくなる気持ち。

 何がすごい、何が面白い、ではなく「とにかくすごい」としか言えない心理状況は、言い換えると圧倒的な不安に支配されているのと同じです。この「不安感」こそが、大ヒットのトリガーだったのでは、と思います。

 公開後、鑑賞したファンの人たちが不安を振り払うかのごとく「シン・ゴジラ評」を一斉に書かれます。
 あれは一体なんだったのか、この気持ちは一体なんなのか。言語化することで不安を分析に転換し、作品として「シン・ゴジラ」と向き合おうと試みるが、内容を思い返し、反芻することを拒絶するような情報量の前に、思い出すために再度劇場へ向かわざるを得ない。そして、もう一度「やられて」しまうのです。このスパイラルはSNSなどで伝播し「え? そんなに面白いなら行ってみよう!」と件の大ヒットに繋がった、ということです。

 私も観賞後は「俺なりのシン・ゴジラ評」を書かなければ、と思いながらも書けずにいました。そんな最中、マンガ家・島本和彦先生の呼びかけで実現した「シン・ゴジラ発声可能上映」において、島本先生の「庵野ー! それ以上はやめろー!!!」という心の叫び(大賞賛に値する)を見て、なんだかもの凄く腑に落ちたというか、浄化された感じがしました。ここに答えがあったと。

 俺たちと同じ(敢えて同じと括ります)特撮好きの庵野監督が「日本特撮界のサンクチュアリ」とも言えるゴジラを作ってしまった。俺たちは一体、どの立ち位置で庵野ゴジラを見れば良いのか……期待なのか、叩きたいのか、認めたいのか認めたくないか。『シン・ゴジラ』を見たあとに文章を書いても書いても距離感を掴みあぐねていましたが、島本先生の魂の叫び(大絶賛)でようやく「良い距離感」に気付けました。まさに泉政調副会長よろしく「まずは君が落ち着け」と差し出される飲料水のごとく。『シン・ゴジラ』を見て、すごく楽しくてうれしかったんだ、俺。もしかすると構え過ぎていたのは、私たちの方かも知れません。と、ここまで「俺とシン・ゴジラの微妙な関係」をしたためました。

 いきなり本題に入っても良かったのですが、それだと気持ちに決着がつかなかったのでお付き合い頂きました。
 さて、ここからが本題。「俺なりのシン・ゴジラ評」に移りたいと思います。評と書くとあれですが、いわゆる「俺はここが面白いと感じたぞ!」的な読書感想文的なものになっています。多少のネタバレを含みますので、ご了承ください。


・怪獣の「目」と人間の「目」
 知っているけど知らないゴジラ、これが最初に『シン・ゴジラ』版ゴジラ(以降「シンゴジラ」)のビジュアルを見た時の印象でした。焼けただれた皮膚を表現したゴツゴツした身体、噛み合わせの悪い乱杭(らんぐい)歯、大きな口はオリジナルである『ゴジラ』(以後『1954ゴジラ』とします)を踏襲した、どこか見覚えのある、紛う事なきゴジラ。しかし、相貌からは何故か恐怖と言うか狂気が漂ってきます。その要因は極端に小さい「目」です。この目は人間の目をモデルにしていて、庵野監督いわく「人間の目が一番恐ろしい」とのこと。

 怪獣というのは大別して「生物」か「非生物」の2種類に分けられます。ゴジラをこの怪獣分類で分けると間違いなく「生物」タイプの怪獣になります。生物である以上「地球で生きるための器官の集合体」であり、それらは怪獣(種族とも言える)ごとに異なった進化、変化を経て、それぞれの生活環境に適応して暮らしています。
 ここで怪獣の歴史を遡ってみると、例えば『ウルトラマン』に登場する地球に生息している怪獣はどれも生物然としています。よくわからん怪獣(ブルトンなど)は自然の摂理から逸脱しているため、生物ではないと言えます。

 ここで改めて「シンゴジラ」の「目」に注目してみると、目の器官として「瞳」がある怪獣は宇宙由来の怪獣(宇宙人タイプ)にも多く存在します。彼らには目という器官に「ものを見る」だけではない違った意味が与えられています。例えばウルトラセブンの物語の骨子に「宇宙人から侵略される地球」というものがあります。地球を侵略してくる宇宙人は程度の差こそあれど、一様に事前交渉の段階があり、武力行使の前に人間と対話を求めてくるのです(宇宙人の交渉はセブン以外の作品でも多く見られます)。

 目は口ほどにものを言う、ということわざ通り、目(瞳)の有無は潜在的に「こいつと対話できるのか・こいつの気持ちが理解できるか」という判断材料になっています。私たちは怪獣の目(瞳とそれに相当する部位)から表情を読み取り、彼らの気持ちを汲もうとします。生物同士のコミュニケーションの基本は「目を合わせること」であり、同種族であれば目を合わせるだけで容易にある程度の意思疎通できるものです。
 だから、「シンゴジラ」は恐ろしいのです。

『1954ゴジラ』は対象物を「見て」から破壊しているので、ゴジラの行動はなんらかの感情に起因するもの、と受け取ることができます。対して「シンゴジラ」は「見る」という行動があまりにも少なすぎるのです。自衛隊のコブラ(攻撃ヘリ)と対峙する場面でも、ゴジラはなんら行動を起こしません。この上ないシカトです。その後、米軍のミサイルを背中が被弾し反撃しますが、あれは生物の脊髄反射、シンゴジラは最初から米軍の攻撃機なんて「見ていない」し、もちろん、私たち人間のことも見ていません。徹底的に他の生物を拒絶する「シンゴジラ」に、私たちと同じ目があること。「シンゴジラ」の目は、人間の深い深い部分へ強烈に訴えかける「げに恐ろしきもの」があります。


・ゴジラの目は何を見てきたのか
 熱心な特撮ファン、特にゴジラファン間では有名ですが、年代ごとにゴジラの顔は変化しています。
 1954年に現れたゴジラは人類が作り出した核によって悲劇的に生まれてしまい、その怨念をはらすかのごとく日本を破壊し、最終的にまたもや人類が生み出した「オキシジェンデストロイヤー」によって死滅。その後、幾度も登場するゴジラはいわゆる「同種族の別個体」という設定をとっています。2作目『ゴジラの逆襲』(55年)以降は、ゴジラの敵役怪獣が登場することによってゴジラ自体のキャラクター性も変化していきます。

 目の表情の変化も合わせると、明確に変わったのは4作目『モスラ対ゴジラ』(64年)でしょうか。このゴジラ(通称モスゴジ)の特徴は、なんと言っても悪すぎる目つき。ゴジラは怖いものであるから目つきが悪くたっていいじゃない。それはそうなのですが、「モスゴジ」以前は巨大生物としての怖さがあったのに対し、「モスゴジ」は「マンガ的表現が強い形骸的な悪役の顔」になっている点が見受けられます。東宝の看板怪獣であるゴジラとモスラ。元は別々の主役を同じ映画で戦わせる構図として、ゴジラが敵役に落ち着いた結果が「モスゴジの極端に悪い顔」に現れています。

 5作目『三大怪獣 地球最大の決戦』(64年)では、シリーズ最高峰の敵役「キングギドラ」が登場し、これに合わせてゴジラの表情は「漫画的表現が強い形骸的な主人公の顔」になります。判りやすく言うと100人中100人が「正義」と答える「少年マンガの主人公」の顔。目が大きく、正面を向いているのが特徴です。

 ここから少年誌の王道パターンを踏襲したゴジラ(途中、息子もできる)になるのですが、『ゴジラ』(84年)で「街を破壊するゴジラ」が復活、これ以降の平成ゴジラ(VSシリーズ)では人類の脅威となる敵役の怪獣と合わせ、ゴジラも人類の脅威として描かれます。『ゴジラVSビオランテ』(89年)のコピー「勝った方が人類最大の敵になる」は、シリーズを象徴する恐怖と絶望が凝縮されています。

 つまり、これまでのゴジラが見てきたものは「ゴジラにとっての敵」であり、その中には人類も含まれている、ということになります。人間であれ怪獣であれ、何かしらと戦うことがゴジラをゴジラたらしめる理由だったのに、『シン・ゴジラ』は絶対拒絶というキャラクター性でそれを完全に打ち壊した、と感じました。
「1954ゴジラ」を除き、唯一「シンゴジラ」に近い立ち位置になるのが『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(01年)でのゴジラ(以後GMKゴジラ)。ゴジラの出自を「太平洋戦争で命を失った多くの人の怨霊」とし、日本を襲う理由と、自衛隊の攻撃が通用しない理由に初めて明確な設定がつけられています。

「GMKゴジラ」の特徴は、瞳のない真っ白な眼球。対話を拒絶したGMKゴジラ、対話も戦うことも拒絶し破壊の限りを尽くすシン・ゴジラ。その目に映るのは、間違っても人類が繁栄した未来ではないことは確かです。


・私たちは『シン・ゴジラ』に何を見たのか
『シン・ゴジラ』を見たとき、えも言われぬ不思議な違和感を感じました。最初はただ単純に頭が見たものを処理できていないだけ、と思っていましたが、これまでゴジラ映画を見ていない人(男性女性問わず)が「すごい怖かった」と同じような感想を述べているのを聞いて、その要因は私が感じた「不思議な違和感」によるものではないか、と思い至りました。

 特撮の醍醐味は「見たこともない世界が見れる」ところ。特撮の世界は荒唐無稽でリアリティがなく世界観に感情移入できない、と特撮に興味のない人には思われてしまう弱点でもあります。特撮に限らず、映像作品や音楽、作品を表現する分野においては「作品の楽しみ方」というガイドライン的なものがあります。映像作品で言えば、「こんな構図見たことない!」とか「こんなカット割り見たことない!」など。これまでの各人の経験値を前提として、その作品のどこが面白いかの判断を無意識的にしています。

『シン・ゴジラ』には実に多くのオマージュが入っています。印象的な『宇宙大戦争』(59年)の曲や、『エヴァンゲリオン』シリーズで使われた劇伴のリメイク曲。劇中の会話は『日本の一番長い一日』(67年)だったり、同作品の監督「岡本喜八」が写真で登場したり、ラストシーンは沢田研二主演の『太陽を盗んだ男』(79年/これは言われて気付いて椅子からすっ転んだ)などなど。他にもオマージュは枚挙にいとまがなく、それだけでも原稿2回分くらいの分量になります。
 好きな人にはたまらない多くのオマージュがありますが、言ってしまえばこのオマージュ群自体は多くの人に刺さる根本の理由ではありません。あくまで、『シン・ゴジラ』(庵野監督)をより深く楽しむための2次的なものです。

 では、これまで特撮を通らず「特撮経験値」がほとんどない一般視聴者(便宜上、一般とします)がシン・ゴジラを面白いと感じたのは何なのか。

 それは、私たちの「目」にあります。
 映像の技術革新はめざましく、4K、8Kといった超高精細な映像技術が確立され、日本人のほとんどがもっているスマホにも高精細カメラが内蔵されるなど、私たちは「高精細な映像」に触れる機会が増えています。しかしその4Kテレビで何が放送されているかというと、お世辞にも高精細とは言えないガビガビのYouTubeなどネット映像に頼った、ニュース番組(災害時や事故など)やおもしろ映像番組が多い現状です。 
 いわゆる「撮って出し」と呼ばれる映像ですが、その強みは「映像の速報性」にあります。それが良い悪い、ということではなく、私たちの周りでは「映像規格のチャンポン」が日常的に行われていて、私たちはいつの間にかそれに違和感を感じなくなっているのです。もっと言うと、今は映像のチャンポンが当たり前なのです。

『シン・ゴジラ』に感じた「えも言われぬ違和感」と、それが面白さに繋がる要因は、映画らしくない「映像のチャンポン」にあると思います。

「デカい尻尾が出てきた。変な生き物が上陸した」、冷静に考えると荒唐無稽も甚だしいですが、普段ニュースなどで見慣れた映像が矢継ぎ早に切り替わり、あたかも「実際にニュースを見ている錯覚」に陥り、荒唐無稽が一瞬にしてリアリティ溢れる映像になる。

 各人の経験値や趣味嗜好が大きく関わる特撮において、特撮やそれに付随する作品の文脈ではなく誰もがもつ「普段の生活」での経験値を組み込む方法は「平成ガメラシリーズ」などでも見られますが、「映像そのもの」という点はこれまでなかったように思います。そう考えると、iPhoneをはじめとするスマホのカメラの功績は、私たちの映像体験を「より高み」ではなく「より身近に」し、既成概念を根本から書き換えた、とも言えるかも知れません。

 これが、一般視聴者が『シン・ゴジラ』を一つのエンターテインメントとして「すごい怖かった」と感じた要因であると考えています。

 言わずもがなですが、この恐怖感と不安感に支配される「映像体験」には、明らかに「東北沖大震災」における報道映像の影響があります。「未曾有の大災害をネタにするのは不謹慎だ!」というご意見も重々承知です。しかし、先の震災の経験があり、そこから日本の力を結集して復興していった「いかなる窮地でも日本は力強く立ち直れる」という共通認識がある訳で(未だ復興作業の真っただ中でもあるし、熊本震災も同様に支援の尽力は急務である)、その精神がきちんと『シン・ゴジラ』の中で言及されているからこそ、万人がゴジラに対する恐怖感を共感し、ラストには何かしらの希望が持てるエンターテインメント作品として成立する特撮映画になったのではないだろうか。

 安易な政治的ドラマでもプロパガンダでもない、見る人に「俺たち、私たちの生活と地続きな作品だ」と、上手く思わせたことが、『シン・ゴジラ』の未曾有の大ヒットに繋がっているのです。言葉は悪いかもしれませんが「上手い嘘のつきかた」のお手本のような作品。特撮作品の本懐は「無理なく無理な設定を映像に落とし込み、観客に新しい映像体験をさせる」ことにあります。私たちが目撃した『シン・ゴジラ』は、「私たちが生活している世界線に突如現れた人類を揺るがす大災害との邂逅」の物語、と言えます。

いかがだったでしょうか?

 まだまだ語り足りないですが、以上を「俺なりのシン・ゴジラ評」とさせていただきます。とは言え、考えれば考えるほど、『シン・ゴジラ』の懐の広さ、いや、業の深さを実感している次第です。特撮ファン、ゴジラファンとしては『シン・ゴジラ』という作品はこれから一年以上「ここが良かった!」、「俺はこう思った!」、「俺ならこうする!」と議論するのが、ゴジラをはじめすべての特撮作品に対する恩返しなんじゃないかと思います。だって、俺たちと同じ特撮好きの庵野監督が、文字通り心と身体を削って作った作品だから。

 本当にまだまだ書きたいことはあります。いずれ何かしらのカタチで『シン・ゴジラ』について語れる場所を作りたいと考えている次第であります。シリーズ動員が一億人とか、尾頭さん可愛いとか、最後の尻尾の意味とか、オマージュされた作品とか、『トップをねらえ!』(88年発売のOVA。庵野さんの最初の監督作)」と『シン・ゴジラ』の関係性とか、考察したい事がたくさんあります。とにかく、2016年にゴジラの最新作が見られるなんて、とんでなくうれしいことなんだな、という気持ちで「俺なりのシン・ゴジラ評」を締めさせて頂きます。ご清聴ありがとうございました。

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発売日:2016年10月12日(水)リリース
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最終更新:9月15日(木)14時0分

おたぽる

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