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織田信長と比叡山延暦寺 420年の恩讐を越えた和解

NEWS ポストセブン 9/16(金) 11:00配信

 滋賀県大津市にある比叡山延暦寺は788年、天台宗の宗祖・最澄により開山された。以後1200年間、鎮護国家の道場として法灯を守り続けてきている。

 小雨がちらつく9月12日の昼下がり、その延暦寺の一角に小さな祭壇が設けられ、ひっそりと法要が営まれた。辺りが煙るほどのお香がたかれる中、色とりどりの法衣の僧侶たちが読経し散華(さんげ、※仏を供養する際に花を散布すること)した。

 その後、延暦寺執行・小堀光実氏はこう語った。

「9月12日は歴史上、『法難』。比叡山のみならず比叡山を取り囲む地元、裾野の方々に対しても、大変な災難を迎えた日です。いまから450年も前とは申せ、後世に伝えていかねばならぬことだと思います」

 いまから445年前、延暦寺では忌々しい悲劇が起こった。それは織田信長による焼き討ちだ──。

 法要が営まれた「元亀(げんき)の兵乱殉難者鎮魂塚」は、この犠牲者を慰霊するために建てられたもの。この日は焼き討ち犠牲者を供養したのだが、それと同時に“加害者”である信長の供養までもが行なわれていたのだ。“怨み”を持っていたはずの延暦寺が信長を鎮魂するに至るまでには、一体何があったのだろうか──。

 信長が天下布武を唱え、日本統一を進めていく中で、最も残虐な行為と伝えられるのが元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちだ。

 元亀元年からの3年間は、信長にとって苦難の時期だった。1568年、信長は室町幕府15代将軍・足利義昭を奉じて上洛した。だが傀儡将軍であることを嫌った義昭は、密かに敵対勢力である越前の朝倉義景、北近江の浅井長政、大阪・石山本願寺、伊勢長島の一向一揆の衆らと通じ、“信長包囲網”を敷いた。

 この四面楚歌の状態を打ち破るべく、信長は反目する延暦寺の焼き討ちを企てたのだった。作家で日本史研究家の高野澄氏が解説する。

「延暦寺が信長の仇敵である朝倉・浅井連合を領地に匿い、肩入れしたということが表向きの理由ですが、信長は当時の寺社仏閣の宗教勢力が武器を持って『僧兵』となり、大きな力を持ち始めていたことに強い危機感を覚えていた。

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最終更新:9/23(金) 12:50

NEWS ポストセブン

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