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おれは異端のハルキスト。尻ポッケにはチャンドラーの文庫本。 『ロング・グッドバイ』 (レイモンド・チャンドラー 著/村上春樹 訳)

本の話WEB 9/16(金) 12:00配信

忙しくても1分で名著に出会える『1分書評』をお届けします。
今日は阿野冠さん。

 今夜は『ハードボイルド』で決めてみようか。

 いまのおれは金もねぇし、文才も錆びついている。何をやってもうまくいかない時、私立探偵きどりで独り夜の街をさまよえばいい。そして、チノパンの尻ポッケにはチャンドラーの文庫本。

 じゃあ、行ってくるぜ。

 村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』は、清水俊二版の『長いお別れ』とはまったく別物だった。場面を照らす光の量がちがう。言い換えれば清水版は古雅なモノクロで、村上版は三原色方式のテクニカラー。

 けれども、中身は同じストーリーだ。有名な決めゼリフも変わらない。

『ギムレットを飲むには少し早すぎるね』

 おれは異端のハルキスト。どういうわけか、村上春樹が翻訳した本ばかりを読みあさっている。『グレート・ギャツビー』・『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。それぞれ作者はちがっても、彼が訳すと得も言われぬ魔力がある。

 チャンドラーの作品はどれも冗漫で、そのくせ泣けるほどスタイリッシュなのだ。するどい現代感覚でとらえようとしても、古い石造りの洋館のように冷たく屹立している。

 ギャングの脅迫に屈せず、すり寄ってくる美女を冷たくあしらう。主人公フィリップ・マーロウは探偵だが、本作はミステリー小説の枠内にはおさまりきれない。刺激的な謎解きや、心地好い逆転劇などは他の有能な推理作家たちがきっちりと成し遂げればいい。

 クールなタフガイも好きだが、老練の脇役も捨てがたい。

 深夜二時、巨漢が巣鴨の立ち食いそば屋に押し入ってきた。店内にいたおれは視線をそらしたが、その男のことはよく知っている。よければ豊島区・格闘家で検索してくれ。

 そいつが、小柄な店のオヤジに声をかけた。

「いつもカレーがすくねぇぞ、喧嘩売ってんのか」

「ルーの量は決まってます。それが店のルールです」

「じゃあ、ネギかけろよ!」

 カツカレーの中心に二、三切れまぶされる青ネギ。おれの隣に割り込んできた巨漢は、ものの三分で完食して店外へ。

 そば屋のオヤジが顔色も変えずに言った。

「カツカレーには少し遅すぎる」

阿野 冠(あの・かん)

1993年生まれ。東京の下町、谷根千で野球少年として育つ。児童劇団に入り、子役として活動。高校在学時に『花丸リンネの推理』で作家デビュー。

文:阿野 冠

最終更新:9/16(金) 12:00

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