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ホラーミステリの名手が「炭鉱」を舞台に繰り広げる濃密な世界 『黒面の狐』 (三津田信三 著)

本の話WEB 9月17日(土)12時0分配信

戦後まもない北九州の炭鉱で起きた、不可解な連続怪死事件。現場に現れた黒面の狐は、人なのか、人にあらざるものなのか?
炭鉱(ヤマ)で働く屈強な男たちの心を、次第に疑いと恐怖が蝕んでいく。
ホラーミステリーの名手による、重厚かつ壮大な書下ろし長篇!

――まず、このご本をお書きいただいた動機、炭鉱という題材を選ばれた理由をお聞かせ下さい。

三津田 のっけから他社の話で申し訳ないのですが、炭鉱はもともと、刀城言耶シリーズの題材として考えていました。あのシリーズは敗戦後の地方が舞台ですから、農村、山村、漁村、孤島と、何作も書いていると舞台が固定化してしまう。それでどこか変わった場所を……と考えて取り上げた題材に、『幽女の如き怨むもの』(2012年)の遊郭があったわけです。

 その遊廓と前後して、目をつけたのが炭鉱です。それで資料をずっと集めていたんですが、いざ読み込みはじめると、これはシリーズものには向いていない題材だと気づきました。刀城言耶という探偵役は、完璧にマレビト、よそからやってきた異人です。そういう位置づけだからこそ、村という共同体の人々が見えていない事実に、彼だけは気づくことができる。だから事件を解決に導ける。そういう仕掛けがあるわけです。

 ところが炭鉱は、そんな村よりもさらに閉鎖的なんです。完璧に閉ざされた社会なんですね。民俗学者の宮本常一さんも「炭鉱だけは、従来の民俗採訪の手法が通用しない」と言っている。なぜかというと、炭坑夫の数だけドラマがあるからです。時代や場所や人が少しでも変わると、語られるお話そのものが違ってくる。仮に同時代でも所が変われば、もう別の話になってしまう。それは炭鉱会社にも言えます。道具ひとつ、明かりひとつ、安全対策ひとつとっても、大企業と中小、また個人では全然違います。そこにはマレビトである刀城言耶が入り込む余地がない。これまでの農山村のように、決して簡単には溶け込めない世界がある。ある程度のリアリティをもって、炭鉱という閉ざされた社会を描くためには、むしろ刀城言耶は邪魔だと思いました。

 それに本書では、主人公自身を炭坑夫にしたかった。そうして実際の苦労を味わわせたかった。そこで刀城言耶シリーズ作品にするのではなく、物理波矢多(もとろいはやた)という新たなキャラクターを創ることにしたわけです。

――主人公は満洲の大学に学んで帰国したインテリ。ユニークな設定ですね。

三津田 探偵役には知的な人物が相応しいですが、世間の人が炭坑夫に抱く印象は違います。実際には知的な炭坑夫も、もちろんいました。そういう中には、言葉は悪いけれど“身を落として”炭坑夫になった人もいたはずです。そこで新しい探偵役を考えるにあたり、とてつもない挫折を味わったエリート、という設定にしたわけです。そのため導入部分はかなり丁寧に書きました。

――本格ミステリとして苦労された点はありますか? 

三津田 刀城言耶シリーズの場合、最初に核となるアイディアがあって、それに相応しい舞台を探していきます。しかし『幽女の如き怨むもの』と『黒面の狐』は、先に書きたい舞台設定と、取り上げたいテーマがありました。そのため時代と舞台に合ったミステリのアイディアを考えるのに、ちょっと苦労しました。もっとも僕は、もともと書きながらお話やトリックを考えるタイプなので、何とかなったのかもしれません。自分でも「この先どうなるんだろう?」と思いながら書いています。あらかじめプロットが決まっているお話を書くのは、非常に苦痛なんです(笑)。

――なるほど、それが三津田作品に、うねりやダイナミズムを生んでいる気がします。

三津田 前もってお話の展開をあまり考えていないからこそ、逆に、おそらく無意識に、物語を変な方向へ動かそうとするのかもしれません。それが今おっしゃった「うねり」になっている気がします。これは下手をすると、過剰さにつながります。でも僕は、そもそも「いびつな」物語が好きなんです。

――三津田さんの中でミステリとホラーはどのようなバランスで存在しているのでしょうか。

三津田 中高生のころは、海外の翻訳ミステリマニアでした。そのうち、すべてを論理で割り切ろうとする本格ミステリに、矛盾や物足りなさを感じるようになりました。その反動で、ミステリに近親憎悪に近い感情を覚えて、いつしかホラーに走ってました(笑)。それこそ古典からS・キングなどのモダンホラーまで、一気にのめり込んだ。ただ、そのあと泡坂妻夫さんや連城三紀彦さんがデビューされて、ミステリの魅力を再認識させられました。それからは両方とも好きなままです。

 作家としてデビューした当初は、本当に趣味で書いていました。それが6作目の『厭魅(まじもの)の如き憑くもの』(2006年)で、はじめて「読者」と「商業」を意識しました(笑)。ミステリを書く作家は、僕よりすごい人が沢山いる。けど、ホラーとミステリを完全に融合させた作家は、少なくとも僕の知る限りいません。それを民俗学ネタで書けば面白いのではないか、と考えました。不条理なホラーと論理的なミステリは、もちろん水と油ですが、これなら挑戦しがいがあると思ったわけです。

 ただ、やはり最初は、なかなか受け入れられませんでした。ですから次の『凶鳥(まがとり)の如き忌むもの』(2006年)では、かなりミステリ寄りに振りました。でも、次の『首無の如き祟るもの』は、自分でもどちら寄りなのか分かりません。読者によっては、本格ミステリ寄りだという人もいれば、ホラー寄りだという人もいて。それからは色々な融合を試せるようになり、今日に至っています。

 ただし拙作の場合、「ホラーを書いて下さい」という注文が来ても、ミステリの要素が入ってしまうのは、やっぱりミステリが好きだからでしょう。逆に『黒面の狐』のように、「本格ミステリを」という執筆依頼をいただいても、ホラー要素が入ってくるのは、ホラーも大好きだからです。仮に右手がホラーで左手がミステリだとすると、両手で書いている感覚でしょうか。

――本格ミステリの場合、論理的解釈で結末がついていれば本格と認識される反面、ホラー的要素の取り入れ方が難しいのでは?

三津田 ミステリとホラーを融合しようとした場合、間違いなくホラーはミステリに負けます。どれほどホラー的な世界を展開しても、最後に論理的な解決を持ってくると、その瞬間に霧散してしまう。かといって最終的にホラーに逃げるようでは、それこそ融合の意味がない。では、どうやったら負けないで、ミステリと拮抗させられるのか? それはホラーの世界観を徹底的に作り込むことです。だから僕は『厭魅の如き憑くもの』で、無気味な因習に縛られ過ぎた架空の村を一から作りました。そこまでやると、論理的な本格ミステリの真相や結末が最後にきても、まず世界観は壊れない。必ず読者の中に残ります。ホラーに逃げては駄目だけど、ホラーが負けてもいけない。そんな気持ちがあります。

――今回は、それに、日本の戦後史の闇の部分を描くという、新たな挑戦がありました。

三津田 ホラーの舞台として興味を持って調べはじめた「炭鉱」ですが、資料を読み込むうちに、そこで生きた人々に目が行くようになりました。炭鉱で働く人々の過酷な労働の歴史から、どうしても目を背けるわけにはいかなくなったんですね。この人たちの思いを再現して、小説の中に書きたい。これは『幽女の如き怨むもの』で遊郭と遊女を取り上げたときと、まったく同じ気持ちです。エンターテイメント作家として、果たして良いのか悪いのか難しいところですが、大きな変化だと思います。

 昨今の海外ミステリは謎解きよりも、テーマの扱い方、題材の掘り下げ方に重点が置かれています。仮に彼らが日本の敗戦後の炭鉱を舞台にしたら、きっと人間ドラマに力を入れたことでしょう。でも僕は、“作り物”であるミステリと、現代史の闇の“本物”の部分、その両方を取り込みたかった。これってホラーとミステリの融合と、相通じるところがあるのかもしれません。

――最後に、読者に何か一言ください。

 刀城言耶シリーズの新作を待っている方には申し訳ないのですが、刀城言耶ファンにも満足していただける、濃い作品になっていると思います。ぜひお読み下さい。

聞き手:「本の話」編集部

最終更新:9月17日(土)12時0分

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