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夏目漱石、コソ泥の思いがけない置土産に呆れかえる。

サライ.jp 9/17(土) 9:10配信

夏目漱石、コソ泥の思いがけない置土産に呆れかえる。【日めくり漱石/9月15日】

今から111 年前、すなわち明治38年(1905)9月15日の夕刻、38歳の漱石は東京・千駄木の自邸にひとりの訪客を迎えていた。英国留学中、ロンドンで同宿し自転車乗りのコーチもしてくれた犬塚武夫だった。

犬塚は、このあと漱石門下となっていく小宮豊隆の叔父さんでもあり、帰国後は銀行員となっていた。豊隆はつい5日ほど前、犬塚に連れられて、初めて漱石のもとを訪れていた。

漱石と犬塚は、8畳の座敷で長々と話し込んだ。「そろそろお暇を」という段になり、漱石が見送って玄関まで行くと、どうしたことか、そこに置いておいた犬塚の帽子と外套が見当たらない。

鏡子夫人や女中も加わって探してみたが、見つからない。漱石のゴム製の雨具も消えていた。

「こいつはコソ泥にやられたらしい」

夏目家はそれ以前にも、何度か泥棒に入られたことがあった。

「外套はともかくも、帽子なしというわけにもいくまい」

漱石はそう言って、自分の帽子を犬塚に貸した。現代人にはピンとこないだろうが、この時代、いっぱしの紳士が無帽(帽子をかぶらない状態)で外を歩くことは著しくマナーを失することだったのである。

客人を帰したあと調べてみると、被害はこれだけではなかった。書斎からニッケルの懐中時計がなくなっていた。さらに、机の上に置いてあった鈴木三重吉の寄越した巻紙の手紙までが、ひっぱり出されている。

一読した漱石が《三重吉君は僕の細君などより余程僕の事を思っているらしい》《僕が十七八の娘だったら、すぐさま三重吉君のために重き枕の床につくという物騒な事になる》などと感想をもらした、情のこもった長い長い手紙である。

この手紙は、漱石門下の中川芳太郎を介して漱石のもとへ届けられたもの。当時まだ東京帝国大学に在学中の三重吉が漱石へ送った初めての手紙であり、これを契機として両者の長く緊密な師弟関係がはじまっていくことになる。

三重吉の長い手紙の片端は机の上に残りながら、庭の木戸を越えて畑の中まで続いていく。あとを追いかけていくと、最後、片端がくしゃくしゃと紙屑のように丸められていて、その下に大便が垂れてあった。

コソ泥は仕事を終えたあと、もひとつ用を足し、手紙の端っこで尻を拭き立ち去ったのだ。とんだ置土産だった。

あまりのことに、鏡子は思わず苦笑してしまった。

漱石先生は真顔で一言、こう呟いた。

「こんな情味のある手紙で尻なんか拭いちゃバチが当たる」

■今日の漱石「心の言葉」
無断で人の庭宅に侵入(はい)る奴があるか(『吾輩は猫である』より)

文/矢島裕紀彦

最終更新:9/17(土) 9:10

サライ.jp

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