ここから本文です

核家族から家族法人へ --- 馬場 正博

アゴラ 9月17日(土)7時10分配信

核家族の失敗

戦前の社会制度は家が基本でした。家父長の権限は大きく、結婚を自分の意志で決めるのは不道徳とさえ考えられていました。家の存続は義務であり、娘しかいない家は婿養子を取って家を存続させることを求められました。家制度からの自由は、戦後個人が得た大きな成果です。結婚は憲法で両性の合意の結果と定められ、家は憲法からは存在を抹殺されました。そして戦後の経済発展は、都市に村落からの大規模な人口移動を起こしました。家からも村からも離れた個人は結婚して自分たちだけの核家族を作ります。家は距離的にも分断され名実共に機能しなくなりました。

個人は核家族を作ることで家からも村からも自由になりました。しかし、次第にその自由の対価は小さなものではないことが判ってきました。子育ては核家族にとっては大変な事業です。自分たちだけで子育てする負担は重く、女性が家の外で仕事持つことは難しくなりました。核家族の子育てはサラリーマンの夫と専業主婦というモデルが前提だったからです。自分の全てを子育てに注ぐことは、女性にとれば社会的な仕事の機会を奪うことになります。さらに孤独な子育ては育児ノイローゼや児童虐待という悲劇も生みました。

子育ての負担は少子化につながります。少子化は年金制度や介護の問題を解決不能なほど悪化させています。そもそも少子化が続けば社会自身が消滅してしまうのは算術的な帰結です。核家族は子育てや年金、介護という現在の失敗だけでなく、長期的には社会そのものを消滅させてしまうシステムかもしれないのです。

大家族の利点

核家族が数百年単位で考えれば存続すら困難な家族形態なのに対し、大家族制は現生人類だけでなく霊長類に普遍的に見られる形体です。人類は大家族の中で協力して、子を産み育て、食糧を確保しました。共同して生きることで人類は種として存続してきました。

年金や介護の問題は、少子高齢化で老人を子供や孫ではなく、社会全体、国全体でどこまで支えていくかという問題に突き当たります。子供も親の介護もない人にとっては、社会という、抽象的で見ることも触ることもできないものを通じて、他人の生活を支えることに葛藤があるのが普通です。しかし、福祉社会は個人の葛藤を克服しなければ維持はできません。

これに対し大家族が自分たちで共同して行う子育てや介護は、そのような葛藤はずっと小さくなります。自分の子ではなくても、血のつながった子供を世話すること、まして同じ家族の面倒を見るのは税金とは違います。それは自分の遺伝子プールを守ろうとする、本能として組み込まれていると言っても良いかもしれません(ただし自分の子供を殺す親がいるように、それは絶対的なものではありませんが)。年寄りの世話や介護は、利己的に考えても自分のためでもあります。核家族のように先細りの家族形態での介護は、単なる負担にしかすぎませんが、大家族なら自分に子供がいなくても将来世話をしてもらえる期待ができます。それに寝たきり老人であっても大勢で世話をすれば介護の重さははるかに小さくなります。

年金や医療保険のような社会福祉制度の成立は、近代の都市化、核家族化と歩調を合わせています。大家族が存在しなくなれば、大家族の代わりを社会が務める必要があります。しかし、社会による福祉は結局はすべてを金で解決することになります。消費税を上げることは国民の強い抵抗を招きます。しかし家族の教育や世話への支出はそれよりずっと納得のしやすいものです。大家族制は社会福祉を必要としないシステムと言うことができます。

1/3ページ

最終更新:9月17日(土)7時10分

アゴラ

記事提供社からのご案内(外部サイト)

アゴラ-言論プラットフォーム

アゴラ研究所

毎日更新

無料

経済、ビジネス、情報通信、メディアなどをテーマに、専門家が実名で発言することで政策担当者、ジャーナリスト、一般市民との交流をはかる言論プラットフォーム