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学生時代には気付かなかった雨月物語の魅力

cakes 9月20日(火)19時12分配信

幻想怪奇文学の古典である『雨月物語』に真正面から「漫画訳」に挑んだ意欲作を8年越しで上梓した武富さんが盟友・宮本大人さんと作品に込められた思いやその裏話を語る。


●大真面目にやってるけど、ちょっと実は……逆の意味があったりとか

宮本 「菊花の約」とかは、これやっぱり、武富さんだからこういうテンションで描いてるのかなって(笑)。

武富 え?

宮本 武富漫画だからこういうテンションなのかなって思うんですけど、実は……

武富 半分は自覚的です。自覚してる以上に何か無意識にやっちゃってんだろうなっていうのはなんとなくわかってきましたけど……。

宮本 でも、この人たちのテンションはほんとにおかしいっていう前提でもちろん描かれていて、この二人のこういうあり方をただただ美しいというふうには、『雨月物語』はもともと全体を通して見ると書かれてないんですよね。
 そこが面白いとこで。これはこれでどうなのっていう。

武富 原文の書き方だと、そのエピソードだけ切り取って読む分には読む人によっては美談としても受け取れるぐらいの微妙な書き方なので、細かいところを見ない人は、けっこう普通にいい話だと思って読んでる人も多いんじゃないかな。

宮本 うん、だと思いますよ。あ、これは「テンション高い美談なのかな」っていうふうに多分受け止められると思うんですよね。だけど、それこそ「貧福論」まで行って、「あ、こういう相対化の視点があるんだ」なってなると、こんな異常な武士道っぽい……。結局、これ別にこの二人が美学に殉じてるだけで、誰も得しないわけで(笑)。て考えると、相対化されてるわけですよね。そういうとこがよかったなと。本全体として見たときの、こういう何か気づきのあるのが面白い。

武富 『菊花の約』の絵柄の選び方としても、一応6、70年代の熱血漫画・劇画、例えば『巨人の星』の後期的な絵柄やタッチとかを取り入れたりとかして演出はしているんですよね。あの熱血の感じを、我々80年代とか通ってるんで、引いて笑ってみる目をもう持ってるじゃないですか。それを踏まえてあの絵柄にしているんですよね。だからわかって読むと、絵柄も含め総合的に、明らかに皮肉なギャグになってるというか。でも、確かに僕の漫画版にしても、最初読んだときには、「これ笑っていいのかな」みたいな、「この2人、真面目にやってんのかな」みたいな感じはあるかもしれないですね。そこは『鈴木先生』のときも意図的にちょっと紛らわしくしてるというか、「どっちなんだ」みたいなのは今回も入れてますかね。

宮本 この左門の顔……影の線が入り過ぎですもんね(笑)。

武富 ああ(笑)、もちろん、宮本さんが僕の漫画に詳しい人とかいうのもあるし、漫画史に詳しい人とかそういうのもあるでしょうけど、読者さんが「この人、単にこういう濃い絵柄なのかな」で済ませちゃったら気づかないですからね。ぼくとしては明らかにメッセージとしてタッチを入れてるんですけど、でも、「まあ、この漫画家さんがそうしたいからそうしたんだろう」みたいな感じで流されたらそこまでですよね。確かに、あまりあからさまにやると、今度はギャグ「としか」見えなくなるという弊害が出るので、多少微妙にしちゃっている面もあるにはあるんですが……。

宮本 ほかのエピソードと絵柄やタッチが明らかに違いますよね。

武富 『菊花』だけ熱血少年漫画の作法です。

宮本 これもあとがきで書かれましたけど……

武富 「浅茅が宿」ですか。

宮本 「浅茅が宿」で、宮木が周りの人を犠牲にして自分の操を守ってるという(笑)、ひどい。
下女が犠牲に……ここですね。

武富 そのエピソードは完全に僕のオリジナルです。

宮本 ここはまあ誰が見てもすぐわかるんですけど、宮木を助けようとする男たちが、客観的にはこう見えるのに……

武富 漆間の太助や、伍助ですね。

宮本 本人主観ではこうゲスな連中に見えてるという。

武富 後半のダンナ相手の告白のときには……。

宮本 そうそうそう。宮木主観ではこう見えてるっていう……

武富 極悪なやつに見えてるっていう。

宮本 こういうのも、まあ漫画だからサラッとできることですよね。文章だとわかんない。

武富 これもやっぱり原文で、例の、せっかくの感動シーンなのに、漆間の老人が老いて感情を抑えきれなくなったみたいなことがわざわざ書いてある、というのがあって。
 その地の文とストーリーの本来の期待される演出のズレが秋成の原文自体にあるので、そのへんも僕の漫画と作風が近いなというか、大真面目にやってるけど、実は……逆の意味があったりとか、そういういたずらっ気というか、仕込みみたいなのもちょっと共通するものを感じたんで「浅茅」では、そこはむしろ秋成の意図を強調するという形で、安心して大きくアレンジしました。アレンジしても上田秋成の心には背かないかなと。

宮本 またその武富さんのお話で何回か出てくるんですけど、最初『雨月物語』って大学時代読んだときはあまりピンと来なかったって話ですが。

武富 そうなんですよ。

宮本 で、その説明の中で、『堤中納言物語』は近代文学的な面白さを見出して好きになってたんだけど、『雨月』はすぐわかんなかったということがあって、でも、結局、今回読んで、その近代文学的な面白さがあるということになってるんですけど、その近代文学的な面白さって具体的にどういうことなのかというのが、ここのあとがきだと説明されてないので、そこをちょっと、もうちょっと説明してもらえるといいかなと。
 どういうとこが近代文学的ということに?

武富 二重構造、三重構造的な多重的な構造になっていて、人生模様とか人間ってものを複雑に多面的に捉えていくという感じとかですかね。『源氏物語』とか古代の文学も含めて、作者の思想や作品の登場人物の心情に深みはあるにしても、そこまで意図的に構造化はされていない感じがある。
 それこそ読者がその多面性・複雑性を受け止めて楽しむことを前提に作品が作られているか否か、ということですね。『雨月』にはそれを前提とした仕込みがはっきりとある。それこそ当時の読者の多くは気がついてないかもしれないし、そのへんちょっとよくわかんないですけど。
 で、それこそ当時だけじゃなくて、僕が学生時代読んだときもそこに気づかなかったわけなんで、普通の古典のお勉強の感じで、古語を現代語にただ置き換えて、表面的な物語、筋を追う感じで素朴に読むっていうんですかね。複雑な作業といえば、いわゆる、何という作品からここを引用しているかとか、そういう学術的な分析は意識するけれども、作品にこめられた思想とか人間探求みたいな部分に関して、そこまで深い作品に見えないという。むしろギミックに頼ってる作品に見えちゃうという感じは、まあ、僕が迂闊だったのかもしれないですけど、ただ、わりと多くのコミカライズの場合でも、最初にお話したように、作家さんはわかって踏まえた上でそこを読者に要求しないように描いてるんだなというのはあるにしても、少なくとも、その読者に対しては本当に素朴な感じでシンプルな喜怒哀楽のストーリーを追わせてあげる体裁のコミカライズがほとんどなので、そのへんってちょうど僕が学生のときに『雨月』を読んだときの解釈とほぼ同じなんですよね。

宮本 いわゆる近世までの文学が、その1個1個にわりとはっきりとした教訓性があって、いわゆる今でいうメッセージ的な部分としては何らかの教訓性があって、それと、基本、知識人が読むので、その元ネタの知識があればあるほど、これはあれから来てる、これはあれから来てるというので、そういう楽しみ方をするという、その二通りがあって、人間の多面性とかいろんな考え方が葛藤してるとかっていうようなとこがちょっとあまりないっていうのが、まあ、近代文学と違うとこっていう……

武富 そうですね。少なくとも表面的にはそういうふうに書くというか。それで、多分、『堤中納言物語』はそうじゃなかったっていうのは、あれって平安時代の後期に書かれたものなんですけど、その時代に書かれたもののわりにあんまり、何を踏まえて、みたいな露骨なギミックがとても少ない、シンプルな作品と思うんですよ。なので、ストレートに心理描写もグーッと入ってくるというか、珍しいなと思うんですけど。
 その当時の、その前後の有名な作品は、それこそ『源氏物語』とかは、やっぱり何かを踏まえたりとかして、何かそのお約束の中から読み解いていく知識的な楽しみをかなり表面的に押し出して、一方では、繊細な「感情」の読み解きにも重心が置かれている。
 もちろんその裏でキャラクターを思想的に、重層的に掘り下げていくとかいうのは作者はやってるんですけど、読者はそこをとくに見なくても十二分に楽しめるという感じで。江戸時代の『雨月』でさえ、見た目はそういう感じなので、『堤中納言物語』が本当に特殊って感じはしますけどね。

宮本 いわゆる近代文学だと、日本の漫画もそうですけど、普通に内面描写をして、それでその人間の多面性とか内面の葛藤みたいなものをストレートに書いてしまうじゃないですか。だから、この人はこういう葛藤があるんだなというのがわかるんですけど、近世までの文学はそんなに、この人はこのときこう思っててっていうことをそんなに克明には言わないじゃないですか。「なんとかな気持ちして」とかそういうぐらいのことで。要するに漫画にしたときに、いわゆる内語で書くような、声に出さない台詞にあたる部分が延々とあるみたいなことは、まあ、そんなにないじゃないですか。
 だから、『雨月』もそういう形では表現されてなくて、「白峯」とか「貧福論」とかそうですけど、教訓話として読もうとすると、儒教的な道徳観と仏教的な道徳観が矛盾するとこがあるじゃないか、みたいなことが対話を通じて出てくるじゃないですか。
 そうやって教訓話に落とし込もうにも、この教訓とこの教訓は矛盾するじゃないかみたいなのがとくに対話部分にはっきり出てるので、それを全部に当てはめて考えていくと、これは実はこっちからも見えるし、こうも見れるっていう仕掛けになってるわけじゃないですか。
 だから、そこが面白いとこなんですけど、漫画にするときに、ところどころその声に出してない内面の言葉みたいなものを書いてるとこもありますけど、そのへんの加減ってどんなふうに考えてやったとかありますか? 方針とか、そこをどうしようみたいな。

武富 やはり、全編読んだりして、とくに「貧福論」にわりとけっこう多くの作品のヒントがかなり濃厚に答え合わせ的に入ってますけど、そういうのを踏まえて読んだらこの解釈しかないだろうなっていうのがあって、そういうところに関しては、台詞なり内語なりに落として、読者にも必ずそこを通るように、気づく人だけが気づくんじゃなくて、そこを必ずみんなが通るように僕が強調して開いて見せなくちゃいけないな、みたいな判断はけっこう全体的にあるかなと思いますね。
 一応、その作業も必要最小限に抑えた、という気持ちはあります。逆に言うと、原作のギミックを開示するには、このくらいたくさんのセリフや内語の追加が必要だということですかね。

宮本 そこはやっぱり原作で読むとすぐにはわかんないことが、この漫画訳だともうちょっと強調されてる感じですね。

武富 そうですね、一応それが売りですかね。まあ、「こういう考え方もあるよ」というレベルよりはもうちょっと確信に近いというか限定的というか、「自由な創作として僕はこうしてみました」っていうことはあまりしてないつもりなんですよ。きっと、無意識にはやっちゃってると思いますけど(笑)。
 「これはこの解釈しかないだろうな」というところに絞って、そこは丁寧に肉付けしています、という感じで、一応それがコンセプトですかね。でも本当に、作家が自作解説で言ってることなんて怪しいですから(笑)。半分ぐらいは当たってるんじゃないですかね(笑)。

宮本大人 / 武富健治

最終更新:9月20日(火)19時12分

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