ここから本文です

恐怖を知るということ、忘れるということ(後編) 第10回<ピンヒールははかない>

幻冬舎plus 9月20日(火)6時0分配信

佐久間 裕美子

 この夏、私は、夏休みを5日間とって、友人夫婦の好意で使わせてもらっている森のなかの小屋で、断食をした。かつては毎年春になるとやっていた断食だけれど、怪我をしてから億劫になってしまい、3年ぶりの断食になった。
 私の実践している「マスター・クレンズ」という断食のスタイルは、程度に差はあれ、ヒッピーイズムの影響を少しでも受けているコミュニティではすっかり定着したもので、レモネード(水、メイプルシロップ、レモン、カイエンペッパー)はいくら飲んでもいいけれど、それ以外の口に入れるものの摂取はすべてNG。食べ物、アルコール、タバコ、カフェイン、ドラッグ、すべてである。
 腸の健康だけ考えたら、たまに数日間固形のものを我慢するくらいでいいという説もあるけれど、私にとっての断食は、アルコールや暴飲暴食、タバコといった有害でまったく役に立たないにもかかわらず、人生に色をつけてくれるものたちから、たまにブレイクをとるための修行である。体はすっきりするけれど、もちろん楽ではない。こんなに一生懸命生きてるのに、わざわざ辛いことをする意味は何なのだ? と自問自答することもあるけれど、その答えは、断食をすることで倍増する喜びにある。食べ物を抜くと、舌や鼻の感覚が鋭くなるから、断食後に口にする食べ物は、涙が出るほどおいしい。友人たちがソーシャルにアップする食べ物の写真を、他人が見たら怖いと思うだろう切迫感で見つめながら、断食が終わったあとに食べられるものを想像・妄想して、食べない期間を乗り切るのだ。
 そういうときに食べたくなるものは、高級なものやデカダントなものではなく、卵焼き、納豆、味噌といった、地味だけれど素朴にじわっとくる食べ物で、友人女子との電話のやりとりのなかで「卵焼き」とつぶやいたら、「近くに卵焼きが得意な人がいるじゃない、食べにいくといいよ」という。
 キングストンという街に住んでいるさとるくんとあつこちゃんというジュエリー作家の夫婦のことだ。私のいる場所から1時間くらい北上したところにあるその街では、創作できる空間を求めて北上するアーティストたちのおかげで、緩やかなクリエイティブ層のコミュニティがだんだん大きくなりつつある。
 一度はけっこう濃い時間を一緒に過ごしたとはいえ(実は2回しか会ったことがない)友人夫婦に「卵焼き食べにいってもいい?」ということに気恥ずかしさを感じつつも、断食後の解放感に背中を押されてメールを出すと、「大歓迎」という返事だったので、いそいそと車を運転して、二人の家に向かった。
 さとるくんは、映画「たんぽぽ」を見て卵焼きを200個作ってその道を極めたという強者である。食卓にお味噌汁、土鍋で炊いた米、あつこちゃんが漬けたというキムチが並び、さとるくんが「卵焼き食べに1時間運転してきた人はさすがに初めてだよね」と笑いながら見事な手さばきで卵焼きを作ってくれる。舌の細胞ひとつひとつまで届く優しい味を、うれし涙をこらえながら噛み締めたところで、さとるくんの提案で、滝壺に行くことになった。
 田舎道を車で走ること30分、地元の人でなければ絶対わからないような特徴もない公道の一角から、フェンスを超えて林のなかを抜けて川に沿って続くトレイルをたどっていくと、7メートルほどある崖の上から滝壺に飛び込むことができるスポットがあるのだった。
 マチュピチュを訪れて高所恐怖症を自覚してわりと早い段階で、崖から水に飛び込むというチャンスに恵まれた。もちろん最初は恐怖で足がすくんだけれど、怖さを克服して飛び込んだときに、怖さの何十倍もの気持ちよさを体験できることを知った。以来、「滝壺があるならむしろ飛び込みたい」体質になっていた。カギは、怖さが芽生える前に飛び込んでしまうことなのだ。
 さとるくんもあつこちゃんも、崖から水に飛び込むことに慣れている。到着したとき、そこには2つのグループがいた。すっかり大人の体を持ちながら、まだ顔にあどけなさを残した地元の女子ティーンエージャーたちのグループ、そして父と一緒にやってきた姉妹だった。姉妹に年を聞くと、12歳と7歳の姉妹だという。ティーンエージャーのグループが、互いを鼓舞し合って、全員がジャンプに成功したあと、ちょっと年下の姉妹は驚くほどあっさり恐怖心を克服して飛び込み、それ以降は、2グループのほぼ全員が、繰り返し滝壺の崖に戻り何度もジャンプしている。

 そのとき、さとる・あつこ家には、前夜から泊まったお客さんの日本人女性が二人いた。ふたりとも、前向きに崖の上まで走り上がっていったけれど、いざ崖に立ったら足がすくんで降りられなくなった。さとるくんが声をかけたり、うまい飛び方を見せたりしながら、ジャンプを奨励しているうちに、だんだん日が落ち始めて、水の温度が下がってきた。さとるくんは足を震わせながらも諦めないで、このふたりを激励している。
 あつこちゃんとのおしゃべりに興じているうちにどれくらい経っただろう。結局、ふたりの女性は、ジャンプすることに成功した。最後にはずいぶんあっさりと。そして水から出てきて、撮ってもらった写真を見て喜ぶふたりの後ろ姿は、ジャンプの前よりしっかりして自信と解放感にあふれていた。ジャンプの前と後では、何かが確実に変わっていた。恐怖は捨てることができるのだ。私もなんだかうれしくなった。



■佐久間 裕美子
1973年生まれ。ライター。慶應義塾大学を卒業後、イェール大学大学院で修士号を取得。98年からニューヨーク在住。新聞社のニューヨーク支局、出版社、通信社勤務を経て2003年に独立。アル・ゴア元アメリカ副大統領からウディ・アレン、ショーン・ペンまで、多数の有名人や知識人にインタビューした。翻訳書に『日本はこうしてオリンピックを勝ち取った!  世界を動かすプレゼン力』『テロリストの息子』、著書に『ヒップな生活革命』がある。

最終更新:9月20日(火)6時0分

幻冬舎plus

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

地球外生命を宿しているかもしれない1つの惑星と3つの衛星
地球外にも生命はいるのでしょうか?NASA(アメリカ航空宇宙局)の惑星科学部門の部門長であるジェームズ・グリーンと一緒に、地球外生命を宿していそうな場所を太陽系内の中で探してみましょう。 [new]