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真田信之、父・昌幸と弟・信繁の助命嘆願に奔走す

PHP Online 衆知 9月20日(火)12時10分配信

真田父子の降伏と信之の嘆願

通説によると、真田信之は、父昌幸と弟信繁に死罪を命じようとした家康を懸命に説得し、高野山追放を勝ち取ったとされる。しかし、近年指摘されるように、関ヶ原合戦で処刑されたのは、首謀者の石田三成・安国寺恵瓊・小西行長の3名のみであり、西軍に属して戦った武将も、降伏後はすべて助命されている。昌幸と信繁が処刑されそうだったというのは、信之の孝養と業績を讃えるために創作されたものだろう。ただし、高野山追放とはいえ、彼らの処置が死罪に次いで重かったのは事実である。追放処分は、八丈島に流罪となった宇喜多秀家とならぶものであった。やはり、秀忠軍と戦い、破ったことが響いたのだろう。
父と弟の赦免のため、真田信之は上洛を果たした。大坂の真田屋敷にいた家臣河原綱家らは、上田城内で焦燥しているであろう昌幸を見舞う書状を出した。それに対し昌幸は、某月(欠損による)二十二日付で上田城から返書を出し、本当ならば自分自身が上洛し、家康に謝罪したいが、それもままならない。今は、信之が上洛して詫び言を行うことになっている。
信之からの返事が来たら、そちらにも知らせることにしようと述べている。
また某月(欠損による)15日付の昌幸書状も、第二次上田合戦後から追放までの間に、河原らに出されたものである。これは欠損が激しく、判読が困難であるが、昌幸の妻山之手殿らが真田方に確保されたこと、信之が上洛したこと、そして伏見に参上したことなどが読みとれる。山之手殿らは、三成挙兵後、西軍に身柄を確保されていたから、それを真田氏が受け取ったのであろう。昌幸は、家族の無事を知り、喜んでいる。そして信之が上洛し、伏見城で家康に嘆願することになっていたとみられる。
最も有名な逸話として、信之の嘆願に、舅本多忠勝が同調し、家康を説得したというものがある。本多氏は、その後も、真田信之の嘆願を援助しているので、これは事実なのだろう。
信之は、おそらく追放処分などもない赦免を嘆願したとみられるが、結局家康は、上田城に籠城し抗戦したことを許さず、高野山に追放を命じた。かくて昌幸・信繁父子の処分が確定したのである。
12月13日、真田父子は上田城を開城し、徳川方に引き渡すと、高野山に出発した。上田城の受け取りは諏方頼水・依田信守・大井政成・伴野貞吉らが行い、そのまま城番として城の警固にあたった。

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最終更新:9月20日(火)12時10分

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