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「加藤がいたら我々は改憲論議に一石を投じた」山崎拓

HARBOR BUSINESS Online 9月20日(火)16時20分配信

 9月9日、かつて「宏池会のプリンス」と称され、「総理に一番近い男」とも言われた加藤紘一元衆院議員(77)が肺炎のため死去した。この訃報を受けて、政界からは加藤氏の死を悼む声が寄せられているが、最も衝撃を受けたのは、加藤氏自ら「YKK(山崎拓・加藤紘一・小泉純一郎)」と名付けたトリオのうちの1人であり、先日『YKK秘録』(講談社)を上梓した山崎拓元自民党副総裁に違いない。

 すでに、山崎氏は訃報に際し、「比類なき叡智の持ち主で、政界のトップリーダーの一人として活躍してきた。終生の畏友だった。哀悼の誠をささげるとともに冥福を祈りたい」との追悼文を発表。9月15日には、東京・青山葬儀所での加藤家・自民党の合同葬で、弔辞を読み上げた。(参照:『「9条が日本の平和を守っている」。盟友、山崎拓が弔辞で明かした加藤紘一との日々』)

 だが、いまだ加藤氏について語られていないことは数多くある。加藤氏が逝去される直前に、山崎氏が小誌のインタビューで、「畏友」について語った内容を紹介したい。

◆「加藤は極め付きの秀才だった」

 そもそも、「YKK」の誕生はイラクによるクウェート侵攻が起きた1990年にまでさかのぼる。

「90年の大晦日に福岡の自宅で紅白歌合戦を見ていたら、加藤から電話があったんです。『政界の同志づくりをしたい』と。それも、経世会(当時の竹下派、現・額賀派)には属さないメンバーでつくりたいと。それで、私が所属する政策科学研究所(当時の中曽根派)の私と、宏池会(当時の宮沢派)の加藤に加えて、清和会(当時の三塚派)から小泉に声をかけようとなった。とういうのも、年齢は違いますが、3人とも72年に初当選した同期なんです。ただ、小泉は少々エキセントリックな人間だから、加藤とは合わないと思った。そのことを加藤に伝えたら、『確認してくる』と。『君はエキセントリックなのか?』と直接、小泉に聞くと『そうだよ。おれはエキセントリックだ』と答えたそうです。加藤は『面白い男だ』と気に入り、仲間になったのです」

 こうして誕生した「YKK」の名前の由来について、山崎氏は著書で以下のように述べている。

加藤によるとこのネーミングの由来は、ファスナーの生産者で有名な吉田工業株式会社(現・YKK株式会社)の商標「YKK」から取ったとの由。3人のイニシャルはY・K・Kだし、ファスナーはしっかりした結束を意味している。また、吉田工業は宏池会人脈と縁が深く、応援も長い間受けている、とのことだった。

 3人は折に触れては集まり、政策論を戦わせたが、なかでも加藤氏の秀才ぶりは際立っていたという。

「加藤は極め付きの秀才でした。我々が初当選した72年は日中国交正常化が成った年。東大卒業後に外務省に入省し、チャイナロビーとして活躍した後、父・加藤清三元衆院議員の後継者として政界に進出した加藤にとって、日中関係の発展のために尽くすことは宿命でした。しかし、外交・安保に限らず、政策面においても、加藤は官僚よりも詳しかった。本当にバランスを取れた政治家でした。今の政治家は官僚がつくった答弁書をそのまま読むじゃないですか。しかし、加藤や宮沢喜一、渡辺美智雄はズバ抜けて頭がよかったから、全部頭に入っている。絶対そんなものは読まない。必ず、自分の言葉で話すんです」

◆超エリートなのに世渡りベタだった

 一方で、小泉氏は3人のなかでも政局感に優れていたという。それは、加藤氏に欠けている面でもあった。

「’72年に田中角栄さんと福田赳夫さんが総理の座をかけて争った“角福戦争”のとき、小泉は福田邸で下足番をしていました。その戦いに敗れて酒を煽っていた福田さんの相伴をしていた。だから、彼は福田さんの無念を忘れず、田中派の流れを汲んだ経世会打倒を掲げ、郵政民営化にまい進しました。加藤にも外交・安保などにおいて、小泉にも勝るとも劣らない強い信念がありました。ただ、超エリートなのに、世渡り下手だったのです。だから、“加藤の乱”は不完全燃焼で終わってしまった」

 この「加藤の乱」のくだりは『YKK秘録』のなかで詳述されている。2000年に、野党が森内閣に対して不信任決議案を提出す動きを見せた際に、当時、宏池会の会長を務めていた加藤氏が野党に同調する動きを見せ、ここに盟友の山崎氏が賛同したのだ。

「各派閥がしのぎを削って自民党が活況を呈した一時代のシンボルが田中角栄さんなら、我々は田中政治=金権政治を否定する立場で当時の政権打倒を企てた時代のあだ花と言えるかもしれません。私は、加藤を総理にさせたかった。ただ、惜しむらくは加藤は正直すぎて、政略家向きではない一面がありました。小渕恵三首相が倒れ、森内閣が誕生してから、加藤は一向に財政健全化に取り組まない森首相を公然と批判しておりました。野党が不信任決議案を提出するのに加藤が同調する動きを見せたことは、すぐにあちこちに漏れていた。森さんと早稲田大学の雄弁会で親しくなって以来、ツーカーの仲の青木幹雄さん(当時、党参院幹事長)に会いに行き、『“加藤政権”の幹事長は、(青木氏や野中広務氏ら事実上の実権を握っていた)橋本派から出してもらっていい』などと言っていたんですから。小沢一郎からも『話が早く漏れすぎている。不信任案が出るまでに切り崩されるぞ』と警告されたほど。結局、その警告通り、加藤派の結束は日を追うごとに崩れていってしまった。山崎派はまとまっていたんですけどね……」

『YKK秘録』において、この加藤の乱のくだりはハイライトと言える。特に、山崎氏と加藤氏のやり取りは、手に汗握る。

「結局、加藤派は側近の古賀誠国対委員長(当時)も含めて、24人も切り崩されて、残ったのは21人でした。敗北が決定的なのに、私が同調したのは、加藤との友情をまっとうすることを優先したため。山崎派の仲間は『一緒に討ち死にする』と言ってくれたが、負け戦に道連れにするわけにはいきません。それで、加藤に『アンタと俺だけで本会議に出席して、党を割ろう』と言って、ホテルオークラからハイヤーに乗り込んだ。けど、国会議事堂に着いたところで、加藤が弱気になって『やっぱり戻ろう』と。それで加藤の車で引き返している最中に、矢野絢也(元公明党委員長)から電話が来て『早く行け! これでアンタらが欠席すると、2人とも政治生命を失うぞ!』と言う。私はその気になり『行こう!』と、再び国会議事堂に向かうのですが、また加藤の心が折れて、引き返してホテルのソファで横になった。ところが、また加藤が『やっぱり、行こう!』と言い出す。さすがに、三度目の正直というわけにもイカンと突っぱねたところ、加藤は一人で飛び出していったのですが、案の定また引き返してきた……」

◆YKKは友情と打算の二重奏

 こうして不発に終わった加藤の乱だが、山崎氏はこれをきっかけに小泉政権が誕生したと分析する。

「加藤の乱の際、小泉は森派会長として勝者の側に着いてきました、そのクーデターが失敗したあと、ひょっこり私の誕生パーティーに出席してきました。呼んでもいないのに(笑)。それでマイクを握って放った一言が『YKKは友情と打算の二重奏』。3人は友情だけでなく、打算でも繋がっている。次の総裁選に出馬する際には協力してほしいという打算を含めて来た、という意味でしょう。加藤派が切り崩されたのに対して、山崎派が一糸乱れぬ動きをしていたことを小泉はよくわかっていた。その小泉のメッセージを受け止めて、私はその後、小泉政権の誕生から終わりまで支えました」

 ご存じのとおり、小泉元首相はその後、「古い自民党をぶっこわす」として、党内の抵抗勢力を徹底排除。郵政民営化に反対した経世会所属議員のもとには次々と刺客を送り込み、経世会の弱体化を図った。旧態依然とした自民党政治は、加藤氏が火をつけ、小泉氏のもとで崩れ去ったといえる。

 最後に、「今YKKが現職だったら?」の質問をぶつけると、山崎氏は「加藤は改憲に反対だっただけに、拙速な改憲論議には一石を投じただろう」と即答。「今の自民党には、政権にモノが言える政治家がいない」とも語った。YKK的な異分子なき現在の自民党政治に関する山崎氏の考察については、続編で明らかにしていきたい。

<取材・文・撮影/池垣 完(本誌)>

ハーバー・ビジネス・オンライン

最終更新:9月20日(火)16時21分

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