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TVスター経営者誕生は必然か? ジャパネットたかたの「常識はずれ」を検証する

NIKKEI STYLE 9/22(木) 7:00配信

 通信販売大手、ジャパネットたかた。その成長の礎となったのが自前スタジオでの自社制作番組でした。しかし、その実現には多額の投資と専門技術を備えた人材の確保が不可欠。当時の業界の常識からすれば異例の挑戦に踏み切った背景には、時代の「変化の芽」を巧みにとらえる高田明氏ならではの嗅覚がありました。
◇   ◇   ◇
 今日はジャパネットたかたが自前のスタジオをつくったことをお話しましょう。
 ジャパネットの最大のターニングポイントはスタジオを2001年に本社(長崎県佐世保市)に設けたことです。スタジオで自主番組をつくっていなかったら、ジャパネットはとっくに消えていたでしょうね。

■既存のシステムでは時代のスピードに追いつけなかった

 なぜ当時では珍しい自社スタジオをつくる気になったか。それは、時代が求めたからです。1990年代半ばにパソコンの人気に火がついたと思ったら、4カ月に1回、新商品が出る開発ラッシュが起こりました。外部の制作会社に発注して編集してテープを完パケ(編集部注:収録して編集が完了した「完全パッケージ」の略称)にして放送局へ送っている間に次の新商品が登場してしまう。放送するころにはもう「新商品」ではなくなっているのです。店頭の実売価格もとっくに下がっているから、適正な価格設定も難しい。「これじゃ勝てない」と思ったわけです。出てきた答えが番組制作のスピードアップでした。
 私は当時の郵政省(現総務省)に行って、2001年3月からスタートする約束で、CS(通信衛星)放送の認可を受けました。放送しないと認可は取り消しになります。このような状況の中、自社スタジオを佐世保につくるんだという強い信念の下、技術者も出演者も誰もいない中で、2000年9月にスタジオの建設を始めたのです。
 スタジオをつくってもそれで一件落着ではない。スタジオ自体は投資すればできる。むしろ、スタジオで通販番組を制作する人材がいないことが本当の問題でした。ジャパネットが今日まで生き残ってこられたのは、人材を自社で養成したことにあると思います。今ではカメラマンからビデオ編集、出演者もあわせて総勢100人ほどの制作スタッフがいます。
 当時、社内にテレビ番組の制作に関わったことがある社員は一人もいませんでした。当然、スタジオを運営することは不可能と周囲から言われました。「カメラマンを独り立ちさせるだけでも何年もかかるよ」、「スタジオをつくっても動かないよ」と助言してくださる人もいました。いざスタジオが完成しても「技術者はどうするの?」と誰もが心配しました。私は「やってみればどうにかなるでしょう」とまさしく見切り発車をしたんです。
 最初に社内から10人を選抜しました。現在、MC(司会)として活躍している中島一成君もその一人です。彼らを技術スタッフ要員として東京のテレビ制作会社に数カ月間、勉強に行かせました。ところが、彼らが戻ってきてもとても放送できるレベルではなかった。そこで「次はどうしようかな」と考えたら、「そうだ派遣会社から制作スタッフを派遣してもらえばいいんだ」と思い付いたんです。
 そして3月の放送開始時は10人程度の派遣会社からの応援組を置いて、当社の10人と一緒にスタートしたのです。応援組の助けを借りて放送を続けながら、その間に社員を育て、また新たな人材を制作部門に投入していく。そうこうするうちに、自分たちの手で放送できるようになったわけです。
 当時と今を比べると今昔の感がありますね。不可能と思えることも、できると信じて考え尽くし、行動していけば不可能も可能になるんですね。

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最終更新:9/22(木) 7:00

NIKKEI STYLE

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