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宮台真司の『ニュースの真相』評:よく出来た映画だが、トランプ現象の背景を捉えきれない

リアルサウンド 9月23日(金)17時1分配信

■アメリカは「腐っても鯛」だったが

 『ニュースの真相』(8月6日公開/ジェームズ・ヴァンダービルト監督)は、前編で論じた『シン・ゴジラ』とシンメトリカルであるという印象を受けました。双方ともに、特定の人物よりも、行政官僚制ないし組織自体が主人公であるかのような、作品だったからです。

 『ニュース~』は、CBSの看板番組『60 Minutes Wednesday』のプロデューサーだったメアリー・メイプスの自伝を基に、2004年にアメリカを騒然とさせたジョージ・W・ブッシュ大統領の軍歴詐称報道に関する「誤報騒動」を描きます。知る限りでは「誤報騒動」を描く初めての作品です。

 『シン・ゴジラ』では、「過去にあり得た行政官僚制の栄光」の姿が描かれ、「しかし現在は…」という落差が、強い諦念を感じさせました。本作でも、「過去にあり得た米国マスコミの栄光」に引き比べた「しかし現実は…」いう落差が、諦念を抱かせます。元気を奪われる映画だと言えます。

 多くの「陰謀暴き」の映画──『大統領の陰謀』(1976)、『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)──は、「米国は酷い国だが、酷さを暴露する数多の表現がある以上、やはり捨てたものではない」との印象を残しましたが、『ニュース~』を観た後に「捨てたものではない」という言葉を口にするのはとても憚られます。

 「米国は腐っても鯛」と感じられた頃、人は米国の政府を批判しても、米国マスコミ表現に希望を託しました。昨今では、人気番組の出演者だったトランプの、ヘイトスピーチ紛いの発言「による」躍進を見るにつけても、「捨てたものではない」と米国マスコミを庇護う意欲は、萎えがちです。

 昨今の映画製作者は誰もがそれを弁えているでしょうが、『ニュース~』の制作陣も同じで、だからこそ、反逆者を主人公とするハッピーエンドの英雄譚にはできなかったのでしょう。米国はもっと酷い状況に向けて突進するしかないだろうという予感を披露する作品になっています。

■敵陣営・味方陣営、どちらの仕掛けか

 『ニュースの真相』には単純な敵/味方図式がありません。メアリー・メイプスは陰謀に巻き込まれたと主張するものの裏取りや鑑定の甘さは弁護できませんが、加えて陰謀が何だったのかも描かれません。反ブッシュ側の陰謀か。ブッシュ側の陰謀か。どちらもあり得る話です。

 メイプスらは反ブッシュ側の立場ですが、メイプスらを騙した陰謀の仕掛人がどちら側でもあり得るという事実に、言いようのない無力感を覚えます。反ブッシュ側の陰謀だとすると、印字がタイプライターでなくパソコンフォントだという杜撰さが、不自然な失敗だなと感じさせます。

 捏造文書が、内幕を詳細に知る者にしか書けない内容だったことに引き比べると、どこにでも探し出せる古いタイプライターを「敢えて」用いずにマイクロソフト・ワードを用いて文書作成する杜撰さが、過剰にアンバランスです。観客はこれを自然なミスだと考えることができないのです。

 他方、反ブッシュ側を挫くブッシュ側の陰謀だとすると、人々をブッシュ軍歴疑惑に圧倒的に釘付けにした後に、その注目点を軍歴の詐称という「本体」から、杜撰な報道という「枝葉」へとシフトさせられるかどうかが、確実とは言えないことが、陰謀としては不自然だと感じさせるのです。

 軍歴疑惑の道を確実に潰せる自信があるとすれば、炎上の仕掛けに相当なリソースを注ぎ込んでのことになります。大量のリソース動員は、仕掛けが露呈する確率を上昇させます。「個人ブログ」で「真実」が暴かれた最初のケースであるという事実を見れば、これは相当な賭けです。

■推定無罪の法理と、名誉毀損の法理

 近代法には「疑わしきは罰せず」の原則があります。「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑することなかれ」。マスコミ「も」個人の名誉を「疑わしい」というだけで毀損することは許されません。国家(統治権力)もマスコミ(第3権力)も強大で、牽制しないと権力が個人を破壊します。

 他方、近代社会では名誉毀損の基準は非一律です。米国では名誉毀損の対象者を、公人・準公人・市民に分類しますが、この順に対象者の側が反証責任を負い、逆順にマスコミが挙証責任を負います。真実性の証明が不完全でも、事実の公共性と目的の公益性が違法性を阻却するからです。

 誤報とされたのは、番組が公表した、州兵時代のブッシュの上官キリアン中佐の文書で、州空軍スタウド大佐がブッシュの訓練評価に手心を加えるよう要求してくるが、評価に関わる期間にブッシュはいなかったとの内容です。このスタウドの部隊に入隊してベトナム行きを免れたのです。

 キリアン文書に併せて提供された軍歴情報は軍関係者以外には知り得ない真実だったので、キリアン文書が偽造だったにせよ、軍歴疑惑の指摘自体の誤りの証明にはなりません。その意味では、資料が不適切だったという事実はあっても、通常言われるのとは違い、「誤報」とは断定できません。

 なのに、一つの資料が偽造だったことから、偏向報道ぶりがネットを中心に徹底的に攻撃され、軍歴疑惑自体が虚偽であるかの如く扱われました。この手法の成功が学ばれたのか、日本でも、一つの証言が虚偽だったことから、偏向報道ぶりが攻撃され、慰安婦問題自体が虚偽扱いされました。

 そこでは、CBSや朝日新聞の報道に見られる杜撰さ(に見出される社内体質)の問題と、ブッシュの軍歴疑惑(に見出される大統領としての資質)の問題とが、混同されています。「報道は杜撰だったが、軍歴疑惑は変わらない」という当然の理解が、敵味方図式の中で完全に抑圧されるのです。

 ブッシュの軍歴疑惑報道については、事実の公共性と、目的の公益性を疑うべくもありません。ブッシュが軍歴を誤魔化す輩であるか否かは、大統領としての資質に関わる問題で、公共的です。加えて、こうした公共的な情報の提供を図る取材活動が、公益を目的とすることも、明らかです。

 名誉毀損の法理に準じれば、CBSの軍歴疑惑報道は名誉毀損に当たりません。その立法目的に遡れば、ブッシュ側は一般市民と違う公人a public figureなので、軍歴疑惑が濡れ衣に過ぎないことを挙証する責任を多少なりとも負わねばなりません。でも、こうした理路が無視されたのです。

■反知性主義批判という能天気なズレ

 確かに由々しきことですが、この映画はズレています。ネット炎上を利用したポピュリズムを「反知性主義」と呼んで批判する能天気さと同じものが見られるからです。取材資料の不適切性ゆえに偏向ぶりが攻撃され、主題(軍歴問題や慰安婦問題)自体が否定される過程は、反知性的です。

 ですが、僕は「反知性主義」という言葉に異を唱えています。かわりに「感情的劣化」という言葉を使えと推奨しています。その理由は、最近の米国におけるオルタナ右翼Alt Right、中でもシリコンバレー系の技術者たちの一部がコミットする新反動主義Neo Reactionismの流れです。

 米国的な伝統に倣って、新反動主義は思想・哲学というより気分・精神です。従って学問的先行業績への参照は皆無に近く、語彙も理系的な稚拙さに満ちます。しかし主張の骨子は、僕が見るに、極めて知的だと感じます。だから僕は新反動主義的なトランプ支持を、反知性的だと感じません。

 この映画はブッシュJr二期目の大統領選のあった2004年に起こった事件を回顧する手記を原作にします。それから12年の間に米国社会(を含む先進社会)に何か重大な感情的地平の変化があったのです。僕は「感情の劣化」と呼びますが、この変化は技術の進歩が絡んだ必然的なものです。

 この必然性をこれから述べていきますが、最終的にはソレを「感情の劣化」と呼ぶ立場自体が脅かされることになります。そのことには数年前から気付いていましたが、米国のトランプ現象の背後にあるテクノロジストの動きを見るにつけても、真実を語らなければならなくなりました。

■フロイト、シュタイナーの自動機械批判

 重大なことがあります。僕はラカンを通じてフロイトに遡った結果、完全な同時代人であるフロイトとシュタイナーの共通性に気がつきました。彼らに共通するのは、言語の自動機械的な自己運動に人間が駆動される事態を、カントの自由意志論的な意味で強く嫌悪していることです。

 カントの自由意志論はアリストテレスのパトス論の伝統上にあります。パトスpathosというと情緒や感情(ペーソス)が取り沙汰されますが、元来は「降り掛かるもの」というギリシア語。天災と同じく感情passionも降り掛かるので、感情の赴くままに振舞うことは受動的passiveなのです。

 だからカントは禁欲を奨励します。欲望への抵抗は能動的activeだからです。帝国主義的拡張競争に伴う人類学の時代である19世紀末から活動したフロイトもシュタイナーも、言語的な自己運動に駆動される事態を自動機械automaonとして嫌悪し、そこからの自由を目差しました。

 フロイトは、言語的な自動運動に駆動される事態を無意識に見出しました。シュタイナーは同じ事態を、臨界年齢前に高次感覚(感情的に深く世界を体験する能力)を習得せずに言語能力を身につけることに見出します。両者は共通して言語プログラムに駆動される自動機械を見たのでした。

 ラカンもまさにだからこそフロイトを評価しています。カント⇒フロイト⇒ラカンという系譜上で、自由意志論のラディカル化としてラカンを評価するのがジュパンチッチでした。彼女はスロペニアのラカン派精神分析学者で、著作『リアルの倫理』で広く知られるようになりました。

■権威主義的パーソナリティ論の伝統

 僕は中学三年の頃からフランクフルター(批判理論)にコミットして来ました。フランクフルターは欧州マルクス主義の一画をなす、戦間期にナチスに追われた亡命ユダヤ人らのグループです。彼らは、フロイトを用いて、全体主義という1次元性(フラットネス)に抵抗しようとしました。

 よく知られているのは、フロムを出発点とする「権威主義的パーソナリティ」の概念です。自らの没落を意識する、元は没落していなかった社会層が、不安の埋合せとして強きものに所属しようとする、動きの中に見出される、自動機械的な──1次元的な──パーソンのことを言います。

 フランクフルターのこうした理論は、丸山眞男が日本的ファシズムの駆動因として没落有力者層・亜インテリ・下士官を見出すことにも当て嵌まるし、女性の社会進出や性的積極化を背景にして無力「化」を意識するモテない若年男子の、ミソジニーを伴ったネトウヨ化にも当て嵌まります。

 日本会議やそれに連なるネトウヨの夫婦別姓反対・性教育反対・「ジェンダーフリー」反対、女系天皇反対など一連のパッケージも、<社会>的構えというより、無力「化」による不安に苛まれた人々の補償行動という、ショボい<実存>の表出──<社会>と<実存>の混同──だとして分析されます。

■新反動主義の背景にイノセンティズム

 さて、ピーター・ティールやメンシウス・ゴールドバーグ等シリコンバレイ系技術者に代表される新反動主義──オルタナ右翼の一部との見方・オルタナ右翼を含むとする見方等いろいろある──に見出されるイノセンティズムは、シュタイナーやフロイトに連なる思考と、実は酷似します。

 そこに見られる伝統的イノセンティズム──ホーボー的なもの──に従えば、ヒラリーに代表される「民主党的なもの」は、言語の自動運動の帰結として、初発の感覚から遠く離れた制度を、馬鹿のように受け入れさせられる全体主義的事態を指します。この認識はフランクフルターに似ます。

 言語の自動運動に支配された機械になるより、言葉以前の欲動に身を任せた方が人間的で善い──。こうした新反動主義の立論は、凡百の4ちゃん系オルタナ右翼(2ちゃん系ネトウヨ)を違って、既に紹介した思想伝統に鑑みても極めて知的で、かかる立論に基づくトランプ支持は侮れません。

 米国の伝統的イノセンティズムは、哲学を嫌い、気分を好みます。だから米国では思想よりも思想以前的イデオロギーが支配的です。現に米国の保守は専ら気分ないしイデオロギーで、思想ないし哲学と言えるものは極く稀です。だから米国では思想史よりも精神史が意味を持つのです。

■保守を巡るアメリカ精神史を確認する

 回り道します。米国では言説としては経済保守・政治保守・社会保守・宗教保守の順で出てきます。思想と言えるのは社会保守だけで、残りは気分や精神に過ぎません。19世紀前半にトクヴィルが記述した米国民主主義は、小規模な信仰共同体の自治が核でしたが、思想というより実践でした。

 南北戦争後の19世紀後半、南部の富裕自営農民を基盤に奴隷制維持を掲げた民主党が立場を失いますが、大恐慌後の戦間期後半、ローズヴェルト大統領がニューディールと呼ばれる全体主義的政策を採用し、戦時国債へと繋がった事で、戦後は財界から経済保守の気分が噴き上がります。

 これがリバータリアニズムですが、思想と呼べる内実を持ちません。その後1950年代に迎えた赤狩りのマッカーシズムは東西冷戦を背景とした政治保守でしたが、全体主義的でした。かかる思想不在に警鐘を鳴らして、英国のバーク思想を導入した社会保守が、ラッセル・カークでした。

 彼は、トックヴィルが見出した小規模な信仰共同体での思想ならぬ実践(を支える精神)を再帰的に見出し、教会を核とした地域を大切にすることを保守だとしました。以降、米国で「草の根保守」と言えば、リバータリアニズムでも赤狩りでもなく、銃規制反対に象徴される社会保守です。

 ところが1960年代半ばの北爆開始以降は多数の若者が徴兵され、それを機にスチューデントパワーが炸裂し、反体制的な気分と結びついたフラワームーブメント(ドラッグカルチャー)が席巻、1970年代以降は多数の帰還兵がレイプや殺戮等の犯罪を持ち込み、アノミー感覚が蔓延します。

 アノミーとは、かつて信頼できた筈の共通前提が信頼できなくなった感覚です。これは自分たちが知っている社会ではないという否定的感覚です。そこからエヴァンジェリカルズ(福音書派)の原理主義──社会感覚・共同体感覚抜きで思い込みに没入する宗教保守──が一挙に勃興します。

 こうして70年代以降の米国は、アノミーの蔓延を背景に、共通感覚を欠いた経済保守・政治保守・社会保守・宗教保守の四分五裂状態を深めますが、これを再び「共産主義という共通の敵」を喧伝して保守合同をもたらしたのが80年代のレーガンで、以降長らく共和党の時代が続くのでした。

■サンデルによるアメリカ精神史の要約

 しかし90年代に入って冷戦体制が終ると「共通の敵」が失われた結果、経済保守・政治保守・社会保守・宗教保守の四分五裂状態が再来して今日に到ります。こうした精神史に比べれば、ロールズ『正義論』以降のリベラル・コミュニタリアン論争の如き思想史は、米国では意味を持ちません。

 但しこの論争に勝利してリベラル思想の重鎮ロールズを撃破したサンデルは、こうした米国精神史を次のように纏めます。米国精神史の出発点は、トクヴィルが見出したような非再帰的なリバータリアニズムで、これは中央政府を否定しましたが、コミューナルな包摂性と共にありました。

 ところが産業化による人口学的流動化を背景に、タウンシップ(共同体の自治)が空洞化した結果、包摂からこぼれた個人を国家が再包摂するしかなくなり、リベラルの時代(民主党時代)になります。それがベトナム戦争後のアノミーを背景にリバータリアニズムへとバックラッシュします。

 しかし、かつての地域性=タウンシップが、既に空洞化していたため、リバータリアニズムは社会を更に空洞化させる市場原理主義になり下がり、社会がますます疲弊して、社会的空洞を土壌にして宗教原理主義が隅々にまで蔓延る。サンデルが『民主政の不満』で記したアウトラインです。

■<技術による人間解放>の初期的な流れ

 ところで、行論の都合上、ベトナム戦開始以降のアノミーの実相に触れねばなりません。このアノミーは先進各国に共通していました。各国で学園闘争が爆発し、リベラルな風が噴きました。反戦平和の反体制、性解放・LSD・爆音ロック・コンピューター音や映像の眩暈が追求されました。

 こうした流れの背景に先進国に於ける60年代以降の「二重の挫折」があります。第一の挫折はベティ・フリーダンの『新しい女性の創造』に象徴されます。米国テレビドラマが描く「薔薇色の郊外生活」が実は砂を噛むような地獄。豊かさがもたらした<こんな筈じゃなかった感>です。

 第二の挫折は政治的オルタナティブを巡る<こんな筈じゃなかった感>。当初<ここではないどこか>として中共や北朝鮮やキューバが憧憬されたのが、夢から程遠い現実が知られ、<ここではないどこか>は現実ではなく観念に探されるようになります。<政治からアングラ文化への逃避>です。

 後のアップルコンピュータに象徴される70年代シリコンバレーも、そうした流れの上にあります。二重の挫折を経て、<ここではないどこか>の眩暈は、バックパッカーに象徴される<自分探し>やコンピュータ音楽や映像に象徴される<環境いじり>(村上春樹的なもの)へと縮退していきます。

 でも、今紹介した流れの中に、<技術による人間解放>の初期的な流れがあります。そこでは既に述べたように、歴史的経緯を背景に、反戦・反体制と結合した形で<ここではないどこか>の眩暈が主題化されていたので(ティモシー・リアリー的なもの)、シリコンバレーはリベラルな香りでした。

■マルクーゼ:子宮回帰から多型倒錯へ

 回り道から戻ります。言葉の自動運動の帰結として、初発的感覚から遠く離れた制度を、阿呆のように受け入れさせられる全体主義的事態に反発する、シリコンバレー系新反動主義者の思考が、言語的自動機械化を嫌うフロイト的伝統に連なるフランクフルターに似ることをお話ししました。

 ところが、似るのはその点だけじゃありません。フランクフルターの中に技術と人間の関係を考え抜いたマルクーゼがいます。映画批評で小説家のJ・G・バラードに触れる際などに繰り返してきた通り、僕はマルクーゼ主義者ですが、新反動主義者の思考はマルクーゼのそれに酷似します。

 『エロスと文明』『1次元的人間』で知られるマルクーゼは、技術が人間を解放する──1次元的(フラットな)人間をエロスへと解放する──と考えました。学園闘争当時の彼は米国流の技術礼賛だと誤解されました。彼の言う解放は、技術による<安心・安全・便利・快適>化ではありません。

 彼は、技術による負担免除が、ヒトがヒトである必要を免除すると述べたのです。そのことを理解した者の多くは、彼の言う「エロスへの解放」のエロスを、子宮回帰──庵野秀明監督『エヴァンゲリオン』シリーズの「人類補完計画」的なもの──として理解しました。でも間違いでした。

 彼が言う「1次元的人間のエロスへの解放」のエロスとは、子宮回帰ではなく、多型倒錯です。全体への癒合ではなく、錯乱の眩暈です。子宮回帰が動物化だとすると、多型倒錯化はハイパー人間化です。本能の壊れ(欲動化)を補完する言語プログラムを、技術が免除して、壊れに戻るのです。

■マルクーゼ思想を小説化したバラード

 マルクーゼのエロスに対する、子宮回帰的理解を表現するのが、SF作家バラートの初期作品、特に「破滅三部作」で、多型倒錯的な理解を表現するのが、バラードの中期以降の作品。映画化作品としてはD・クローネンバーグ監督『クラッシュ』(1997)とB・ウィートリー監督『ハイ・ライズ』(2016)があります。

 しかし、未来のリゾートを描いた最も初期の短編『ヴァーミリオン・サンズ』シリーズには、既に中期以降的理解が見られ、かつ技術が何を可能にするかが描かれています。ヒトよりも遙かに優れたコンピュータが産業やインフラの管理を行うので、ヒトは自由気儘な芸術的生活を送ります。

 宝石を埋め込まれた昆虫たちが歩き翔び、至る所に不思議なノイズ(音楽?)を奏でる音響彫刻が立ち並び、部屋はヒトの感情に従って色どころか形を変え、或る者は飛行機械に乗って雲の彫刻をし、或る者は実在するか否か分からない女を追い求めて徘徊する──むしろ多型倒錯的です。

 そこには、技術が未熟な段階では、ヒトは言語を用いてちゃんと考えて社会を運営したり人生を運営しなければいけないが、技術が高度に発達した段階では、もはや<安心・安全・便利・快適>を意図する必要さえ免除され、他人様に迷惑をかけずに<渾沌と眩暈>を満喫できるというビジョン。

 このマルクーゼ=バラード的なビジョン──僕が長らく推奨してきたもの──と、シリコンバレー系テクノロジストが主張する新反動主義のビジョンは、形式が同じだと感じます。彼らはマルクーゼを反復する形で、特異点問題=2045年問題以降の社会を、先取りしていると僕は感じます。

■テクノロジスト版オルタナ右翼とマルクーゼ

 現地では用語が混乱していますが、ここでは「オルタナ右翼」という言葉で米国版ネトウヨを指し、「新反動主義」をテクノロジスト版オルタナ右翼、と考えます。僕が注目(共感?)しているのは、頭の悪い人間が多いネトウヨ一般ではなく、こうした連中をむしろ見下す新反動主義者の発想です。

 オルタナ右翼ないしネトウヨの大半は、国を問わず「周辺化された人々の、不安の埋合せ的な権威主義化」で説明できます。謂わば動物化=自動機械化した存在ですが、そうした連中の出現を必然と捉え、かかる動物化とハイパー人間化(錯乱化)を、同時に擁護する新反動主義者があり得ます。

 ここでは先に挙げたような個別の新反動主義者ではなく、僕が考える理念型的な新反動主義者を想定してみます。彼は、所詮は下らない思想や哲学に基づく制度の押しつけに反動しますが、しかしリバータリアンと違い、社会概念を否定するのでなく、技術による社会変革をこそ志向します。

 制度による社会変革ではない、技術による社会変革。これを明確に対照させて後者に軍配を上げたのが、見田宗介『現代社会の理論』です。彼は、資源の限界・環境の限界・市場の限界を克服する方途として、資本主義の制度的否定ならぬ、延長線上にある情報化消費化社会に夢を託します。

 1996年のこの著作を朝日新聞の論壇時評で批判しました。大食らいのペットを買うより、たまごっちで遊ぶ方が、資源にも環境にも負荷をかけず、簡単な意匠変更で市場の飽和を避けられるのは確かでしょうが、そこで働くヒトの感情がより人間的で豊かになるとの見立てはナンセンス。

 むしろ、映画『ファイトクラブ』的な意味で「何でもあり」になる筈です。そうした予想を1968年の時点で打ち出したのがスタニスワフ・レム『泰平ヨンの未来学会議』で、それを見事に映画化したものが、アリ・フォルマン監督『コングレス未来学会議』(2013)です。少し説明します。

■映画『コングレス』的な社会の現実化

 僕は夏にボケモンGOが発売されたとき、とうとう『コングレス~』の世界が来たなと思いました。映画後半と原作が重なるので、そこについて紹介します。未来はITとクスリを用いた拡張現実が普及しています。人々は自分が成りたいキャラクターになり、生きたい現実を生きます。

 拡張以前の素の現実を生きる人は極く僅かです。素の現実は、環境が破壊されて廃墟化し、食べ物がエサ同然ですが、全てが技術を通じて体験加工されています。特定の拡張現実に入るにも薬。拡張現実から離脱するにも薬。結局は[薬と特定現実]の組。素の現実も拡張現実も所詮等価です。

 人は「見たいものだけを見、見たくないものを見ない」で生きています。そこでは、素の現実を見たいという意欲も、「見たいものだけを見、見たくないものを見ない」生き方のバリエーションの一つです。作品は、そんな社会は非倫理的か、そんな社会でどんな倫理が成り立つかと問います。

 レムの原作には、先進国で生きるということ自体、常に既に、「見たいものだけを見、見たくないものを見ない」生き方なのだとする見切りがあります。トマ・ピケティが見出した第2次大戦後20年余りの製造業を通じて中間層が分厚くなる時代も、資源のタダ同然の買い叩きが支えました。

 1980年代に入って特に石油のタダ同然の買い叩きが不可能になってから、物を作って上がる利益が、金融から上がる利益よりも低くなり、その結果先進各国は極度の低金利となりました。儲からないので、資本はより固定費の低い場所を目差して移動し、グローバル化が進展したのです。

 グローバル化の進展は、先進各国の中間層を分解させ、先に申し上げた「周辺化されるがゆえに、埋合せのために権威主義化する存在」を大量生産し、ネトウヨ化を推し進めます。そんな中、そうした存在を「包摂」してマイルド化する機能を果たすのが、ポケモンGO的な拡張現実なのですね。

■技術的な体験制御が再配分を免除する

 理念型的な新反動主義者は、こうした技術の発達が、貧困を埋める為の政治的再配分の制度を不要にすると考えます。先進国の貧困は所詮主観的ビジョンです。社会学では相対的剥奪感と言いますが、特定準拠集団を参照して自己評価するだけ。準拠集団の選択は恣意的で、主観的です。

 所詮は主観的ビジョンであれば、拡張現実で制御できます。技術を使えば、情報が物材をさして用いずに体験を与えるので、物材の稀少性はどうでもよくなります。物材だけでなく、自己イメージの稀少性も克服されます。味や匂いと同様に、自己イメージも所詮は情報の体験に過ぎない。

 そこでは人々が入手したがる財(イメージを含む)を巡る需要と供給のゲームがあるだけ。或いは膨大な無償の贈与もあり得ます。とすれば、貧乏を再配分で手当てする必要も、社会的底辺での差別的な生まれを手当てする必要もなくなります。これが制度ならぬ技術による社会変革です。

 ユングが喝破したように、神秘体験の存在は神秘現象の存在を意味しません。敷衍すれば、我々には<世界>(現実界)が与えられることはなく、<世界体験>(想像界)だけが与えられます。<世界>を<世界体験>に変換する函数がパーソンシステムと社会システムにおける言語的操縦(象徴界)です。

 <世界>を<世界体験>へと変換する函数であるパーソンと社会。パーソンと社会による<世界体験>の出力は、技術による媒介でいかようにも制御できます。制度は万人を巻き込みますから押しつけがましいけれど、技術は幾らでも個人化できます。ポケモンGOはやりたくなきゃやらなくていい。

 同じ理屈で、差別主義者はひたすら差別をすればいい。差別を是正する必要はない。差別主義者からなる共同体と、差別される者からなる共同体や反差別主義者の共同体とが、別々の拡張現実として分離され、互いに交わらないように制御されればいいだけ。新反動主義者はそう考えます。

■トランプ支持を反知性的と退けられない

 こうして技術は、ヒトから、ヒトである必要を免除します。人間的なパーソンである必要も、人間的な社会である必要も、なくなります。そうした社会を描き出しているのが、J・G・バラード原作にかなり忠実な映画『ハイ・ライズ』です。そこでは壊れた人間たちの共同体が擁護されます。

 同型の理屈で、技術による社会変革を旨とする新反動主義者──テクノロジストのオルタナ右翼──は、差別ありぃの、ファイトクラブありぃの、といった壊れた人間たちの共同体を擁護するがゆえに、トランプを圧倒的に支持し、制度による社会変革を主張するヒラリーを蔑むのです。

 そこがブッシュ支持のネオコンと、トランプ支持の新反動主義者との間の違いです。どちらも「周辺化の不安を埋合せるべく巨大なものに縋る」馬鹿層の動員を図りますが、前者は統合を、後者は錯乱(の共在)を目差します。前者が『ニュースの真相』、後者か『ハイ・ライズ』に対応します。

 シリコンバレーのテクノロジストらは、彼らがリベラルに見えた1970年代も、その一部がオルタナ右翼化していると見える2010年代も、一貫して「技術による人間解放」を唱導しています。但し、前者の解放は子宮回帰的、後者の解放は多型倒錯的です。後者は前者を含み得るので一般的です。

 シュタイナーやフロイトから始まる、ヒトが言語的自動運動によって駆動されたオートマトンであることを拒絶する思想は、言語的存在へと縛り付けられた1次元化したヒトである必要を、技術が免除してくれるとするマルクーゼを経て、意外にもトランプ支持へと行き着いているのです。

 シュタイナーやフロイトに始まる、ヒトが言語的自動運動で駆動されるオートマトンであるのを拒絶する思想に僕自身連なるがゆえに、トランプを支持するシリコンバレー系のテクノロジストに相当の理を認めます。僕の共同体自治の思想とどこが違うかは、いずれ映画に即して語ります。

■リベラルのクソ化が生んだトランプ現象

 最後に、ヒラリーに代表されるリベラルのどこがクソ感を与えるのかをお話しします。結論から言うと、昨今のリベラルは<安全・安心・便利・快適>が柱の一つです。実際ヒラリーは「フィール・グッド・ステイト」という言葉でそれを理念化しています。しかし人はそれで幸せになれるのか。

 でも、僕がよく言うように、<安全・安心・便利・快適>より<渾沌と眩暈>こそが大切だという価値観があり得ます。僕が初期ギリシア思想が好きなのはそうした価値観を体現するからです。学園闘争時代のニューレフトは違いましたが、80年代以降の左翼は<渾沌と眩暈>を取り零しました。

 僕の考えでは、新反動主義やそれを含むオルタナ右翼に媚びるトランプの移民排斥への呼び掛けは、一見ヒラリーと同じく「テロの脅威」を口実にしますが、メッセージの質感は、<安全・安心・便利・快適>よりもむしろ闘争による<渾沌と眩暈>の取り戻しを呼び掛けるものだと断言できます。

 リベラルのもう一つの柱が<権利獲得>です。昨今の典型がLGBTです。しかし僕が各所で述べるように、<権利獲得>しても性愛で幸せになれる訳じゃない。むしろ無関係です。性愛の幸せは<権利獲得>ではなく<生き方>の問題だからです。フェミニズム界隈に非常に目立つ勘違いです。

 米国の新反動主義を含めたオルタナ右翼界隈に、ゲイを中心とした性的少数者が目立つのは、それに関連すると僕は思います。リベラルは<権利獲得>に傾斜する余りに<生き方>への美学的注目を蔑ろにしてきました。オルタナ右翼は、女性憎悪というゲイの<生き方>を肯定しています。

 僕が大好きなグザヴィエ・ドラン監督の作品には、ゲイである監督自身のミソジニー(女性憎悪)が表出されています。ダイヴァーシティ(多様性)という時、リベラルはゲイのミソジニスティックな生き方を許容しているだろうか。だから僕は「多様性」ではなく「何でもあり」と翻訳します。

 人は<安心・安全・便利・快適>と<権利獲得>で幸せになれるのか。「新左翼の父」マルクーゼが1次元性として唾棄したのはその種の勘違いで、バラードに限らず数多の小説や映画が主題化してきました。勘違いに塗れた昨今のリベラルは、マルクーゼに照らせば1次元性に塗れたクソです。

 そう感じる者が、ヒラリーを憎悪し、トランプに軍配を挙げるのは、何の不思議もない。たとえ演技にせよ、トランプが、<安心・安全・便利・快適>と<権利獲得>でフラット化するしかない生livingの反対側を生きているように見えるからです。トランプはリベラルのクソ化が生み出したのです。

宮台真司

最終更新:9月24日(土)9時31分

リアルサウンド