ここから本文です

パレスチナ映画『歌声にのった少年』の監督が抱える闇 - 酒井啓子 中東徒然日記

ニューズウィーク日本版 9月23日(金)18時20分配信

<現在公開中の映画『歌声にのった少年』はパレスチナの少年を主人公に夢と希望を描いているが、監督のハニ・アブ・アサドはイスラエル国籍のパレスチナ人として深い闇を抱えている>(写真は14年1月のアブ・アサド監督)

 先週、某民放のバラエティ番組を見ていて驚いた。パレスチナ人監督のハニ・アブ・アサドがゲストで出演していたのだ。

 監督の最新作『歌声にのった少年』の日本公開に合わせた、「宣伝」のための出演だったのだろうが、長年中東研究に携わってきた筆者からすれば、びっくりだ。パレスチナ映画がゴールデン・タイムの民放で紹介されるなんて! しかも監督自らが出演して、日本の芸能人相手にガザのパレスチナ人社会の現状を語るなんて!

「テロリストの親玉」視されてきたPLOのリーダー、アラファトがノーベル平和賞を受賞した、というまでの大転換とはいかないけれど、パレスチナ映画なんて説教臭いメッセージ性ばかり強くて悲惨な現状ばかり押し付けてくる、うっとうしくて暗いマイナーな映画だ、と思われてきた過去からすれば、とんでもないメジャー進出である。

【参考記事】1982年「サブラ・シャティーラの虐殺」、今も国際社会の無策を問い続ける

 アラブ映画のなかでもパレスチナ映画には、1980年代まではもっぱら政治的指向性が非常に強く出ていた。そりゃそうだろう、エンタメや恋愛ものを撮っている場合じゃない、芸術を含めたすべての事象が、パレスチナの解放という大義に向かっていた。パレスチナ内で撮影できないことから、海外のアラブ諸国、特にシリアやイラクの革命政権の協力で製作され、それも政治性を強く帯びる原因となった。

 だが、80年代末から90年代になると、第一次インティファーダが民衆運動として評価されたこと、オスロ合意締結により「和平」「共存」へと関心が高まったことから、国際社会のパレスチナ映画への評価も変わっていった。欧米に移住したパレスチナ人のなかから、ヨーロッパ好みの、芸術性の高い作品が次々に生まれたことも、大きく影響している。ベルギー在住のミシェル・クレイフィ監督はその代表的な例で、1987年の「ガリレアの婚礼」で同年カンヌ映画祭国際映画批評家連盟賞を受賞した。

 だが、ヨーロッパのツウは認めても、ハリウッドへの道は遠い。イスラエル出身のパレスチナ人、エリア・スライマーン監督の『D.I.』(2002年)は、カンヌ映画祭審査員賞、国際批評家連盟賞をとったのに、アカデミー賞では「パレスチナ人だから」という理由でか、候補にならなかった。



 そういう経緯を経て2000年代、ハニ・アブ・アサド監督の登場になるわけだが、彼の面白いところは、けっこうエンタメ路線を踏まえているところだ。英BBCやチャンネル4で番組制作に関わっていたことも、影響しているかもしれない。2005年に制作された『パラダイス・ナウ』は、ゴールデン・グローブ賞を取り、アカデミー賞外国語映画部門にもノミネートされたが、受賞反対運動が起きた。自爆作戦に赴くパレスチナ人青年の、イスラエル占領下での生活と葛藤を描いていたからである。

 次々に国際的な評価を高めていったアブ・アサド監督が行きついた作品が、今公開中の『歌声にのった少年』だ。本作品でテーマとなったガザ出身のパレスチナ人、ムハンマド・アッサーフのサクセスストーリーは、あらためて説明するまでもない。占領下のパレスチナで国外に出るのがいかに難しいかは、このコラムで何回か紹介した『自由と壁とヒップホップ』などのパレスチナ映画でも、繰り返し描かれてきた。アブ・アサドの新作は、その障害をいかに乗り越えて、オーディション歌番組で優勝したかを、愛と感動で描く。暗い暗いイメージのはずのパレスチナ映画が、夢と希望を与えてくれる、涙なくして見られない映画だ。

 さて、今回、アブ・アサドについて筆者が語りたいのは、この最新作のことではない。そのひとつ前、日本でも今年四月に公開された『オマールの壁』(2013年)である。サスペンス調の『パラダイス・ナウ』や愛と感動の『歌声にのった少年』に比べると、重い。背景となる社会状況がわかりにくいとか複雑だとかはあるのだが、出口のなさが前者二作に比べて半端ではない。『パラダイス・ナウ』がわかりやすかったわけではないけれども、「占領がひどい、パレスチナ人社会は苦しんでいる、イスラエルはケシカラン」的な短絡的な構造認識が一切、消えている。

【参考記事】映画『オマールの壁』が映すもの(1)パレスチナのラブストーリーは日本人の物語でもある

 この重苦しさは何なのだろう、とモヤモヤしたまま映画館を出たのだが、数日してから気が付いた。「イスラエルの占領×、抑圧されているパレスチナ人○」では片づけられない、まさにその最大の対象が、アブ・アサド監督自身だからである。イスラエル国籍を持つパレスチナ・アラブ人として、被占領下のパレスチナ人の立場を完全に共有することもできず、ましてやイスラエル側には加担できない。かといって、祖国を離れてヨーロッパで、客観的な目でパレスチナを眺めるディアスポラの立場にも、満足できない。

『オマールの壁』の主人公は、『パラダイス・ナウ』と同じく、イスラエル占領下のパレスチナ人の青年たちだが、主題はパレスチナ人の間の疑心暗鬼に置かれている。『パラダイス・ナウ』の底流にも流れていたように、パレスチナ人内部からイスラエルへの「密告」が、ここではより中心的なテーマとして描かれる。だが、密告者に成り下がる側にもそれなりの理由があって責められないよね......的な話でもない。むろん、パレスチナ人社会の「密告」性質を暴く、的な告発モノでもない。結果として、じゃあどうすりゃいいのよ、といった煩悶を見る者に残して、モヤモヤ感満載で映画館を後にすることになる。



 で、そのモヤモヤ感が腑におちたのが、登場人物のなかの「密告を誘うイスラエル側のエージェント」の位置づけがわかったときである。ネタバレになるのであまり詳しく言えないのだが、主人公はイスラエルのエージェントに徐々にではあるが心を開きながら、最後は銃を撃つ。その転換点となるシーンがあって、それはそれまで主人公と流暢なアラビア語で会話していたイスラエルのエージェントが、家族とヘブライ語で話す場面なのだ。

 そうか、主人公はエージェントのことを、自分たちと同じアラブ人=パレスチナ人だと思っていたのか。イスラエル人のエージェントとはいえ、同じパレスチナ人ならイスラエル国籍を持っていても自分たちにそれなりの共感と同情を持ってくれるのでは、という深層心理が、主人公を「密告」に走らせたのか。それがヘブライ語を話す生粋のイスラエル人だとわかったことで、主人公は絶望したのだろうか。

【参考記事】『オマールの壁』主演アダム・バクリに聞く

 ここに、アブ・アサド監督の深い闇を見た。自分自身、イスラエル国籍を持ちながら、イスラエル国内外のパレスチナ人に深く寄り添う。だが、「イスラエル人」として、占領下のパレスチナ人とは明確に隔絶されている。それどころか、占領下パレスチナとイスラエルの間のマージナルな人間として、裏切りや疑心が常に付きまとう存在だ。自分の存在は、ほのかに占領地パレスチナ人に手を差し伸べるかもしれないけれど、結局は「ヘブライ語を話したエージェント」のように、占領地のパレスチナ人を見捨てるものとみなされてしまうかもしれない。生涯ディアスポラで終わったパレスチナ人学者のエドワード・サイードは、死の淵で夫人に、「自分はパレスチナのためにまだ十分できていない」と言い残したと言われている。苦境に喘ぐ同胞に心を寄せながらも、完全に同一視してはもらえない、辺境に置かれた人々。

 移民や難民の抱える辛さは、経済面でも社会面でも政治面でも衛生面でも、ありとあらゆる側面で計り知れないものがあるが、その根幹にあるしんどさは、マージナルなところに立たされることから来るのではないか。民族的な出自と今住む社会、それから国籍――。自分が属する複数の集団の、どれに一番「忠誠」を持つのかが、常に周りから問われる。問われるだけではない。疑われる。難民もそうだし、二重国籍者もそうだ。

 日本で難民映画祭が開催されるようになって、今年で11年目。仙台ではすでに始まっていて、この週末から札幌、東京、大阪と続く。ここで上映される映画の主人公たちにもまた、歌声にのって世界に羽ばたいていける未来があってしかるべきだ。

酒井啓子

最終更新:9月23日(金)18時20分

ニューズウィーク日本版

記事提供社からのご案内(外部サイト)

ニューズウィーク日本版

株式会社CCCメディアハウス

2016-9・27号
9/21発売

460円(税込)

TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

地球外生命を宿しているかもしれない1つの惑星と3つの衛星
地球外にも生命はいるのでしょうか?NASA(アメリカ航空宇宙局)の惑星科学部門の部門長であるジェームズ・グリーンと一緒に、地球外生命を宿していそうな場所を太陽系内の中で探してみましょう。 [new]