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黒柳徹子「38歳で迎えた大きな転機の話」  [FRaU]

講談社 JOSEISHI.NET 9/25(日) 18:00配信

自分の居場所はどこにあるのか。今の仕事は自分に本当に合っているのだろうか。いっそ、ここではないどこかへ旅立って、自分を試してみたい――。

30代、社会人になって10年以上が経過すれば、誰もがそんなことを思うのではないだろうか。 同一司会者番組の最多放送回数でギネス世界記録に認定された「徹子の部屋」をはじめ、32年間もユニセフの親善大使として活躍、世界35ヵ国以上で翻訳され単行本・文庫本など累計800万部という大ベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』の著者でもある黒柳徹子さんは、まさに“異形“で“偉業“の人だ。でも、徹子さんも30代の頃は、まだ自分の仕事に、自身の生き方に迷っていた。

1971年9月、徹子さんは、ニューヨークにある演劇スタジオの門を叩いた。38歳のときだった。

大学を出てすぐNHKに入って15年、毎日のスケジュールはビッシリ決まっていた。朝起きて、「さあ、今日は何をしようかしら」と思ったことなど一度もなかった。一度でいいからそういう生活がしてみたかった。

それに、「仕事だけを見れば、『今が最高なのに、どうして留学なんかするの?』と思われるような時期でした。『帰ってきて、もし仕事がなかったらどうするの?』とも聞かれました。でも私は、15年、テレビやラジオのお仕事をしてきて、1~2年日本を離れたからといって忘れられたら、それは私に実力がなかったということ。私は身体も丈夫だし、他のことだってできるだろうと思ったのです」

心強かったのは、当時のマネージャーが明るく「休んでらっしゃい!」と言ってくれたことだ。
「山岡久乃さんは、『あなたは独身で身軽なんだから、ゆっくり休んできて』と。森光子さんは、『お小遣いがなくなったら言ってね』ってご親切(笑)! 沢村貞子さんは、『2年はちょっと長いわね』と言いながらも、快く送り出してくださいました。マスコミからも、『休養なんて生意気だ』なんてバッシングされることもなく、『いってらっしゃい!』という雰囲気で。母も含め、誰も反対しなかったんです」

そうしてニューヨークで、徹子さんにとって、本当の意味での、“自分らしい生き方“が始まった。


※フラウ2016年10月号より一部抜粋

PROFILE

黒柳徹子 TESTUKO KUROYANAGI
東京都乃木坂生まれ。ライフワークである「黒柳徹子海外コメディ・シリーズ」が1989年にスタート。その第一回作品は、ロンドンを舞台に、おしゃべりガイドと堅物職員がトークバトルを繰り広げる「レティスとラベッジ」だった。ユーモアとペーソスにあふれた傑作が、この秋、初演から27年ぶり、再演からは16年ぶりにリニューアル上演! 10月1日(土)~16日(日)EXシアター六本木20日(木)~23日(日)梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ
『レティスとラベッジ』

最終更新:9/25(日) 18:00

講談社 JOSEISHI.NET

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