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時代の潮流に乗った男、レオナルド・ダ・ヴィンチの「潮目」

Forbes JAPAN 9/25(日) 15:00配信

「Time=タイム」という言葉の語源は、中世英語の「tide=タイド」にさかのぼる。海や大きな湖のそばで暮らした古代人は、tide(潮)の満ち干きという自然現象から、time(時間)を読み取った。



潮汐は月と太陽から地球が受ける引力によって起こる。24時間に2回。この周期で海面が高くなり低くなる。この動きと月の満ち欠けは、生命誕生や食物栽培への影響を人に実感させてきた。

ところで人間や国の「一生」も、さまざまな世の中の「潮」と連動している。「時代の潮流に乗る」幸運がある一方、「潮目が変わった」、「もはや潮時だ」など、どんなに栄えた王朝も栄枯盛衰である。

世界の政治経済や文化流行などの潮目が変わればそれに即応する必要があると人は無意識に感じて生きている。逆に言えば、時代の潮流に乗れば、国も人も素晴らしい創造をもたらす可能性に満ちている。歴史上その最大の例を引くとすれば、イタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチをおいてほかにない、と私は思っている。

彼は世の中に即対応する創意を発揮しそれをプロデュースし続ける一生を送った。工房で絵ばかりを描いていたのではない。ミラノの国立科学技術博物館には彼の名が冠されているように、解剖学、天文学、幾何学を研究し、ヘリコプターの原型を設計し、土木工事もおこなった。アルノ川の洪水を食い止めるための仕事も手がけた。

「ウィンザー手稿」に遺されたのがその有名な『洪水図』だ。激しく流れる川に、橋桁などの固体を置くと、カルマン渦という勢いある渦が生じる。その渦は現実には危険なものであった。

その絵は完全な計測装置もなかった時代、急な流れに身を投じて観察したかのような痕跡を暗示している。彼の洪水図は橋の上や岸辺など安全な場所から水面を眺めている限りでは、決して見えない渦の形を表している。すなわち人間が渦に身を投じ、潜水して渦に巻き込まれ、初めてとらえることができる、上下方向に渦巻く渦を描いている。これは現代の流水力学の専門家も驚く表現なのだ。

例えれば、紀貫之が詠じた鳴門の渦潮、あるいはエドガー・アラン・ポーの怪奇小説『メエルシュトレエムに呑まれて』の漁師の体験のごとく、レオナルドは激流の中でもがきながら、必死にそのスパイラルの驚異を観察しとらえた。美術史上、後にも先にも、渦巻く水、潮のダイナミズムをこれほど生命的にとらえた作品は存在しない。

そしてこの名作は彼の人生を襲った激流とそこからの見事な脱出を象徴している。

『最後の晩餐』で有名な彼の活躍地ミラノは1515年フランス軍に攻略され陥落した。ミラノはもともとイタリア(ローマ人)のものではなく、時代からガリア(古代フランス)であり、紀元前7世紀からケルト人が居住したメディオラヌム(平原の真ん中)という都だった。それを奪還すべくフランスが遂にそこを占領し、レオナルドが禄を食んでいたスフォルツア家の城主も亡くなり、イタリアで活躍してきた彼にとっての命取りの潮目となってしまった。

しかし彼をこの「時代の潮目」は救ったというべきであろう。ミラノを押さえたフランソワ1世はレオナルドを厚遇する条件でフランスの城へ招きたいと申し出ると、彼はそれに応えた。傑作『モナリザ』が今日ルーヴル美術館にある理由のみか、レオナルドの墓がロワール川ほとりのアンボワーズ城の礼拝堂にあるゆえんである。

最晩年のアンボワーズ近郊のクロ・リュセ城で機械装置や解剖学そして得意の「流水力学」の研究を続けていたといわれる。

レオナルド・ダ・ヴィンチは歴史的に「全能の人」と呼ばれている。それは、その時代(タイム)と潮流(タイド)に乗ってよい仕事ができたときその人は初めて「能ある人」になる。

時の潮が人をつくる。とすれば時計とは、荒く渦巻き優しく流れるこの時代に潜水して進む、精巧なカプセルなのである。

文=鶴岡真弓
多摩美術大学・芸術人類学研究所所長、ケルト芸術文化&ユーロ=アジア装飾文化研究者。東西各国の伝統デザインを調査。著書に『ケルトの歴史』(共著・河出書房新社)など多数。

Forbes JAPAN 編集部

最終更新:9/25(日) 15:00

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