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老人ホームが「格子無き牢獄」に変わるとき

BEST TIMES 9/26(月) 13:00配信

老人ホームが「格子無き牢獄」に変わるとき

堀内直也さんは、山梨県甲府の住宅街で、宅老所「みつばやあんき」を運営している。宅老所では、一軒家に利用者とスタッフが家族のように寄り添って生活をし、利用者のお年寄りも、一緒に食事の準備や洗濯を行う役割が与えられている。堀内さんにお話を伺った。

「ここは格子無き牢獄だ」と叫ぶ人がいます。果たして「どんな人」が「どんな場面」でこの言葉を叫んだのでしょうか。

答えは、「(一人の)お年寄り」が「特別養護老人ホーム」で叫んだ言葉です。私はこの言葉を大学時代の実習において耳にしました。

そこは真新しく、綺麗で真っ白い施設です。一人ひとりに小部屋が用意され、過ごしやすいように温度も常時調整されています。また三食バランスの取れた食事が提供されており、お風呂にも適時入る(入れてもらう)ことができます。加えて、レクリエーションも用意されており、気分転換を図ることもできるのです。にもかかわらず、なぜ一人のお年寄りは「ここは格子無き牢獄だ」と叫んだのでしょうか。

 ボクは宅老所を運営しています。宅老所とは簡単に言えば、お年寄りが日中に過ごすデイサービス施設です。ただそれだけに留まらず、早朝や夜間をはじめ、緊急時などの泊まりにも対応しており、制度の枠組みにとらわれず、お年寄りに限らず‟困っている人“がいれば、その人に合わせた福祉を届けることを基本としています。幾つかの例を簡単に挙げるとすれば、お婆ちゃんが朝5時に遊びに来ても笑って済ましたり、お爺ちゃんが猥雑な雑誌を見たいと言うので一緒に見たり、近所の青年が定職に就けないと聞けば相談に乗ったり、それから…。

 基本的に現在の福祉を取り巻く環境は、”本人のこれまで生きてきた、また、生きていきたい「生活」を取り上げる”ような形となりつつあります。たとえば、徘徊をすると危ないので家(施設)には何重にも鍵をかけましょうとか、猥雑な行動は問題なので精神薬を投与して気持ちを落ち着けましょうとか、定職に就けないことは努力が足りない証拠なので職業訓練校に通わせましょうとか、それから…。

現実は確かに難しい局面をいく度も迎えます。問題が起きた場合、本人のせいにしたくなることもあります。ただボクたち福祉職は「問題を抑えこむこと」や「本人を変えること」が仕事なのでしょうか。そうではないはずです。「社会に働きかけること」や「本人の周りにいる人を変えること」が仕事のはずです。社会的に見て望ましい行動が取れないからといって、誰かの命や尊さを否定しない限り、社会の枠組のなかに抑えこむ権利が誰にあるのでしょうか。いずれにしても、本人の「生活(思い)」及び「生活歴」という視点から物事を考えないといけないように思います。

 話は戻ります。「ここは格子無き牢獄だ」と叫んだお年寄りは「家で暮らし続けたい」と思っていた方でした。「ボロ屋でも、エアコンや風呂が家になくても、ご飯が不味くてもいいから、家で死にたい」と話していた方でした。ただ家で暮らすと火の不始末の心配があるため、アパートの住人等が「火事で死んでしまうのは可哀想だ」と思い、施設職員も協力して施設に入所してもらったという経過があるのです。

 本人の周りにいる人たちは、施設入所する方が本人の幸せに繋がると思い込み、時に本人の「生活(思い)」及び「生活歴」をないがしろにしてしまいます。これに伴い、確かに本人は「安全」を手に入れることはできました。ただおそらく本人が最も大切にしたかったであろう「自由」を失ってしまいました。その結果として、「ここは格子無き牢獄だ」といった言葉が引き出されてしまったのです。

では、問題の根はどこにあるのでしょうか。アパートの住人等でしょうか。特別養護老人ホームでしょうか。福祉職でしょうか。本人がわがままなのでしょうか。それとも制度がいけないのでしょうか。そうではありません。一人ひとりの生活に「余裕」がないこと、社会に「ゆとり」がないこと、それがこの問題の根にあると思うのです。

ともあれ、宅老所であれば「ここは格子無き牢獄だ」といった言葉は引き出されないのでしょうか。宅老所も同じ問題の根を抱えています。目の前にいる人が望む福祉を届けたいと思っても、介護報酬の引き下げに伴う人手不足と質の低下、実地指導などに伴う事務作業の増加、年々支援を必要とする人の課題が複雑化していることなど、事業所を運営するだけで精一杯の状況となっています。ボクたちの宅老所を含めても、国は福祉職のボランティア精神に頼っている節が随所で見受けられます。お年寄り等を人質にとられ、「あなたたちがいなくなるとこの人はどうなるのかな? また格子無き牢獄って叫び始めるけどいいのかな?」と言われている気にすらなるのです。

団塊の世代が後期高齢者となる2025年には「介護ショック」と言われる大きな波が訪れます。残り後9年と差し迫っていますが、現在の日本に「質」「量」共に受け止めるだけの福祉力は果たしてあるのでしょうか。

 少なくともボクの宅老所では、今後も一人ひとりの生活に少しでも「余裕」を生み出し、社会に対しても少しの「ゆとり」を作り続ける実践を行っていきます。もう一歩踏み込んで言えば、「違い」を「許し合う」実践を行っていきたいと思うのです。「人を排除しない」「人の存在を否定しない」といった肝心なことは譲らず、他の違いを許すことが現在の社会に求められていることだと思うのです。

最後に、ヴァルター・ベンヤミンは「希望なき人のために、希望は私たちに与えられている」と言いました(『親和力』)。一人ひとりが日々をどう生きるのかによって、誰かの希望になりえます。まずは身近にできることから初めていきませんか。

  

 

 

 

 

 

 

文/堀内 直也

最終更新:9/26(月) 13:00

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