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夏目漱石『吾輩は猫である』モデルの猫に名前がなかったわけ

サライ.jp 9/27(火) 11:23配信

夏目漱石、訪ねてきた寺田寅彦を愛猫の墓に案内する。【日めくり漱石/9月27日】

今から106 年前の今日、すなわち明治41年(1908)9月27日、41歳の漱石は東京・早稲田南町の自宅を訪問してきた門弟の寺田寅彦を、北側の裏庭へと案内した。そこには白木の角材が立っていて、漱石の自筆で「猫の墓」と書いてある。花も手向けてある。

それは、『吾輩は猫である』のモデルともなった夏目家の猫の墓標であった。

小説の冒頭に《吾輩は猫である。名前はまだ無い》と書かれていたように、この猫には名前がなかった。後年、大人になった漱石の次男の伸六が、改めてこのことを母の鏡子に質したことがあった。

猫が迷い込んだのも死んだのも伸六自身は生まれる前のことで、詳しくは知る由もなかったが、「いったん自分の家に飼うことにきめた猫に、全然名前をつけてやらなかったというのも、妙な話だし、第一それでは呼ぶのにはなはだ都合が悪かったろう」と考えての問いかけだった。

ところが、鏡子は、「だって、あんな猫、誰も呼びやしないもの」と突き放した物言いをしたあと、さすがにちょっと考えて、こう付け加えたという。

「そういえば、時々、『猫、猫』って、呼んでたわね」

この話から類推すると、漱石夫妻と年長の娘たちの間では、この猫はいつのまにか「ネコ」と名づけられていたと思えなくもない。そういえば、戦後詩を代表する詩人の田村隆一(1923~1998)も、自分の家の飼い猫に「ネコ」という名前をつけていた。

さて、漱石に案内されて裏庭に行った寺田寅彦は、猫の墓標に向かって瞑目した。この猫が死亡したのは、ちょうど2週間前の9月13日だった。その翌日、漱石は門弟たちに「猫の死亡通知」を書き送ったのだが、その文末に、

《但(ただし)主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び申さず候》

と書き添えてあったため、寅彦も漱石邸訪問をこの日まで差し控えていたのである。庭の隅には曼珠沙華が今を盛りと咲き誇り、隣家の栗の木は、たわわに実をつけていた。

『三四郎』の執筆はまだ続いていたが、少しずつ調子が出て、漱石の気持ちにはゆとりが生まれていた。

寅彦を部屋に上げると、漱石は、荒井伴男という人物の消息譚を聞かせた。この男は漱石が半年ほど前に発表した小説『坑夫』のモデル。自ら漱石のもとに体験談を売り込みにきて、その後しばらく夏目家の食客となっていたこともあるから、寅彦ら門弟とも面識があった。

その荒井伴男が、その後、失恋して煩悶し各地を流浪したらしく、そのことが、東京日日新聞にも「小説坑夫の主人公 煩悶慰安所に飛込む」といった見出しで報じられていたのである。

漱石と寅彦がそんなことを話していた夕べ、漱石門下の小宮豊隆と鈴木三重吉は、平野屋という店で一献酌み交わしていた。ふたりの頭の中には、もっか師の書き進めている『三四郎』の物語が渦巻いている。

登場人物の人物造形や言動に巧みに自分たちが投影されているようで、酒を飲みながら、ふたりともなんだか、自分が三四郎や与次郎になったような妙な気がしてならないのだった。

■今日の漱石「心の言葉」
家の猫が死んで裏に御墓が出来た。鮭一切れ、鰹節飯一椀をそなえた(『書簡』明治41年10月20日より)

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

最終更新:9/27(火) 11:23

サライ.jp