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凝りすぎがアダに!?「健康オタク」徳川家康が自ら死をまねいた原因とは

サライ.jp 9/27(火) 14:20配信

慶長5年(1600)9月、徳川家康は関ヶ原の戦いで石田三成らが率いる西軍を撃破し、天下の主導権を掴む。このとき家康は59歳だった。その15年後、大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼして徳川の天下を不動のものとし、翌年に75歳で亡くなった。

「74歳で天下獲得をはたした徳川家康、その長寿を支えた健康術とは?」でも紹介したように、家康は自身が「健康オタク」といえるほど自身の健康に留意していた。食事については生涯粗食をもっぱらとし、常に温かいものを食すことを心がけ、季節はずれのものには手を出さなかった。

そんな家康が、老境に入ってから強い興味を持つようになったのが漢方だった。それも『和剤局方(わざいきょくほう)』『本草綱目(ほんぞうこうもく)』といった中国の医学書を熟読し、侍医に命じたり、ときには自らが調製したりして、数々の薬をつくりだした。

風邪に効き目があったという「紫雪(しせつ)」、中風の特効薬「烏犀円(うさいえん)」、滋養強壮の「八味丸(はちみがん)」などの常備薬を、家康は専用の薬笥(くすりばこ)に蓄え、自ら服用するとともに大名たちにも分け与えた。家康の薬の知識おける自信は過剰ともいえ、しばしば侍医たちの意見も無視することがあった。

家康が晩年に鯛の揚げ物を食べて腹痛をおこしたことは有名な話だが、このときも家康は「寸白(すんぱく)」(条虫などによる病)と自己診断して、「万病円」という自家製の腹痛薬を飲み続けた。これに対して侍医の片山宗哲は、「積(せき)」(腹中に塊ができる病)と診断して、家康に「万病円」の服用を止めるように進言したところ、勘気を蒙って、信濃高島(長野県諏訪市)に配流されてしまった。

しかし、プロの医師である宗哲の診断はやはり正しかった。家康の病はいっこうに快復せず、どんどん痩せてゆき、ついに元和2年(1616)4月、75年の生涯を閉じたのである。

家康が子の秀忠や幕府の医官に伝えた薬の知識は、幕府の医事制度の礎となり、のちの小石川薬園(現在の小石川植物園)などの医療機関として結実したのだった。

文/内田和浩

最終更新:9/27(火) 14:20

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