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死の床から生還した夏目漱石、吐血時の状況を知って愕然とする。

サライ.jp 9/27(火) 16:20配信

死の床から生還した夏目漱石、吐血時の状況を知って愕然とする。【日めくり漱石/9月25日】

今から106 年前、すなわち明治43年(1910)9月25日の朝、伊豆・修善寺の菊屋旅館内で病床についている43歳の漱石は、睡眠不足を感じていた。きのうの夜、観光で宿泊している一団が、夜通し騒がしかったため、よく眠れなかったのだ。

風呂にも、終夜、人が出入りする物音がしていたし、朝は朝でまだ暗いうちから顔を洗う音が聞こえてきていた。

午前11時頃、寝不足気味の漱石の枕頭に、友人の畔柳芥舟(くろやなぎ・かいしゅう)と門下生の岡田耕三(のちの林原耕三)のふたりが挨拶にきた。

「それでは、われわれは、そろそろ引き上げますから。先生、くれぐれもお大切に」

前日、東京から見舞いに駆けつけ1泊した両人は、これから一緒に帰京するというのだった。漱石は礼を言って、寝たままふたりを見送った。

お昼頃、門弟で朝日新聞社勤めの坂元雪鳥と長与胃腸病院副院長の杉本東造、それから友人たちの計らいで漱石の診療の応援にかけつけていた医学博士の宮本叔(はじめ)も、東京へ引き上げていった。

「あと2週間くらいすれば先生も東京へ帰れるでしょう。そう、20日ほどみておけば、まず間違いないでしょう」

宮本は、漱石を慰めるように、そんな言葉をいい残していた。確かに漱石は、床の上で読書をしたり句作をしたりできるほど、健康を回復していた。

昼飯には、鯛の刺身4切れ、ソーダビスケットに水を塗って塩をつけて焙ったものが出た。漱石は、どちらも「うまし」と思って噛みしめる。

午後1時頃には、朝日新聞の同僚の杉村楚人冠も帰京した。

人が出入りすると床についていても何かと慌ただしいのだが、自分のことをこれだけ大勢の人が心配して動いてくれているのかと思うと、自ずと感謝の気持ちがわいてくる。危篤状態にまで陥ったからこそ、噛みしめ直している感情であった。

この日、漱石が詠んだ句。

《古里に帰るは嬉し菊の頃》
《静なる病に秋の空晴れたり》

夕食時、病後はじめて起き直ってみて、漱石はまたひとつ、新鮮な感覚に打たれた。言葉にしてみれば、横に見る世界と縦に見る天地の異なる事を知る--そんな気分であった。

食事もおいしく、夜になっても自分ながら元気だと感じる。漱石は妻の鏡子から、自分が意識を失っていた最中の様子を、ようやく聞き出してみる気になった。

聞いてみて、漱石は驚いた。漱石は意識を失う前、一度血を吐いたことを自分でも覚えていた。ところが、気を失ったあとも、鏡子の肩につかまるようにしながら、さらに大量の血を吐いたという。30分ほども意識不明の状態が続き、その間、16本余りの注射をしたという話も聞いた。漱石は驚きつつ、あとで日記に書き留めた。

《余の見たる吐血はわずかに一部分なりしなり。なるほどそれでは危険な筈である。余は今日まであれほどの吐血で死ぬのは不思議と思うていた》

■今日の漱石「心の言葉」
顧みれば、細き糸の上を歩みて深い谷を渡ったようなものである(『日記』明治43年9月26日より)

最終更新:9/27(火) 16:20

サライ.jp

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