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ヒラリーに過激派の過去? ホワイトハウスが非公開要請した卒論の謎

HARBOR BUSINESS Online 9/28(水) 9:10配信

◆憶測を呼んだ卒論テーマ

 2016年度大統領選挙において、候補者たちの過激な発言ばかりが注目を集める中、ヒラリー・クリントン候補は穏健派の立場を貫いています。しかしそんなヒラリーにも、過激派との結び付きが取り沙汰された過去があることをご存知でしょうか。

 1969年、ウェルズリー女子大学で政治学を専攻していた22歳のヒラリーは、学生生活の集大成となる卒業論文に取り組んでいました。卒論のタイトルは『“ただ闘争あるのみ”:アリンスキー理論の分析(“There Is Only the Fight …”:An Analysis of the Alinsky Model)』。ヒラリーの地元シカゴ出身の社会活動家、ソウル・アリンスキーへの取材を元に書かれたこの卒論は、審査を担当した4人の教授全員から最高のA評価を授与されています。

 輝かしい業績だったはずの「ヒラリーの卒論」はしかし、24年の時を経て封印されることになります。1993年、ヒラリーの指導教官だったアラン・シェクター教授は、休暇中に思いがけない連絡を受けました。「クリントン大統領夫人の卒論を非公開にして欲しい」との、ホワイトハウスからの要請でした。

 ウェルズリー生の卒論は、すべて重要資料として大学の保管庫に収められ、申請すれば誰もが自由に閲覧できます。しかしウェルズリー大学は「卒業生が大統領もしくはその伴侶となった場合、任期中は卒論を公開しない」という異例の規則を作って、要請に応じました。

 極秘文書となったヒラリーの卒論は、「反対勢力の攻撃材料となるのではないか」とシェクター教授は案じました。その見解は正しく、謎に包まれた論文は、1990年代に多くの憶測を招きました。そしてヒラリーは「実は反体制主義の過激派だったらしい」と、まことしやかに噂されるようになったのです。

◆大統領夫人は「過激派」だったのか?

 ヒラリーの卒論は、なぜ隠されなければならなかったのでしょう。謎を解くためには、ヒラリーが研究対象としたソウル・アリンスキーという人物を知らねばなりません。

「住民組織化の父」との異名を持つアリンスキーは、民衆による草の根運動を米国中に広めた第一人者です。この世には「持つ者」「持たざる者」「わずかに持つ者」「より多くを求めるもの」の4種類の人間がいると訴え、「富や権力を持たざる者」による反体制デモを組織しました。彼が1971年に著した『過激派のルール(Rules for Radicals)』という本は、今なお社会活動家のバイブル的存在であり、「アメリカの民主主義を変えた」と評されています。

 自身を「過激派」と称してはばからなかったアリンスキーは、1972年に亡くなる直前、プレイボーイ誌のインタビューに応じて「もし死後の世界があるならば、私は躊躇なく地獄行きを選ぶだろう」と語っています。「私はいつも『持たざる者』の味方だった。地獄の亡者たちは『美点を持たざる者』。彼らを組織してやるのが楽しみだ」というのがその理由です。

 またアリンスキーは著書『過激派のルール』の冒頭で、「人類が知る最初の過激派」として、堕天使・ルシファー=後の魔王サタンに献辞を捧げています。この悪魔崇拝者のごときアリンスキーのイメージゆえに、彼の思想を研究したヒラリーにも「隠れ過激派」のレッテルが貼られることになったのです。

◆大学改革の旗手・ヒラリー

 2001年、クリントン大統領の退任をもって、ウェルズリー大学はヒラリーの卒論を公開しました。その内容は、ヒラリーを過激派と結び付けたい勢力にとっては、拍子抜けするものだったことでしょう。実際のところ、ヒラリーはアリンスキーの思想を否定していたのです。

 ヒラリーは対貧困政策などに関しては、アリンスキーの政府批判に同調していました。当時のトップダウン型の政策は、市民の願望からかけ離れていると分析しています。

 しかしヒラリーは、アリンスキーの「社会の制度は外部からしか変えられない」という主張には、真っ向から異議を唱えました。反ベトナム戦争・反人種差別を訴える学生運動が全米に広がった1960年代に、ヒラリーはウェルズリー大学の学生自治会長に就任しました。権力の座につくことで、「内部からの制度改革」を試みたのです。

 1968年9月、大学のキャンパスに到着したばかりの新入生たちを前に、ヒラリーは上級生を代表してスピーチを行いました。学生運動の激しい時局をふまえ、ヒラリーは「あちこちの大学では、時に暴力を伴う運動によって変革がもたらされます。ウェルズリーでもデモ活動は行われてきましたが、本大学におけるほとんどの改革は話し合いによる結果です」と宣言しています。

 ヒラリーがリーダーシップを発揮した1968年から1969年の間、ウェルズリー大学には多くの変革がもたらされました。「ウェルズリー生は改まった席ではスカートを着用しなければならない」「男性ゲストは日曜以外に女子寮を訪問してはならない」「全学生は『聖書の歴史』を必須科目として受講しなければならない」などといった古い校則は撤廃され、マサチューセッツ工科大学との単位交換や、貧困家庭の高校生に大学施設を開放する「教育推進プログラム」などの、新しい取り組みが始まりました。

 ヒラリーは、バリケードを張って声高にがなりたてるのではなく、討論会の進行を務めたり、運営委員会で発言することで、冷静に数々の改革を推し進めたのです。

 ヒラリーはアリンスキーの方法論には疑問を唱えても、その人間性の魅力については認めています。アリンスキーも優秀なヒラリーを気に入り、卒業後は彼のもとで働かないかとスカウトしたそうです。ヒラリーはこの申し出を断り、秩序立った政治を学ぶため、イエール大学の法科大学院に進学しました。そこで運命の人、ビル・クリントンと出会うことになるのです。

◆ヒラリーを苦しめる卒論の亡霊

 アリンスキーの方法論を「効果がない」と結論づけたヒラリーですが、皮肉なことに、政治家となったヒラリーに苦戦を強いたライバルたちは、アリンスキーの思想を体現する民衆扇動者たちでした。

 アリンスキー思想の継承者として最も有名なのが、バラク・オバマ現大統領。2008年の大統領選挙で、それまで夫ビルの選挙も含めて敗北を知らなかったヒラリーに、初めての黒星をつけた相手です。

 オバマは1985年からの4年間、アリンスキーの影響下で始まったシカゴの地域振興事業(DCP)の住民組織者として働いています。無名の一議員だったオバマが、民衆の草の根運動を追い風に、大統領の座にまで上り詰めたのは、周知の事実です。

 また2016年の大統領予備選で、最後までヒラリーとしのぎを削ったバーニー・サンダース議員も、アリンスキー思想の体現者といってよいでしょう。アリンスキーと同じユダヤ人であり、シカゴ大学の後輩でもあるサンダースは、1960年代にアリンスキーの設立した人種平等連合(CORE)で働いています。若年層を中心に爆発的な支持を得たサンダースも、アリンスキーの組織論をうまく活用していました。

 民主党の中枢的存在であるヒラリー、オバマ、サンダースの3人の政治家が、半世紀も前に没した「ソウル・アリンスキー」という人物にそれぞれ深くつながっているのは、不思議なものです。生涯を通じて「変革は外からもたらされる」との主張を続けたアリンスキーは、今や米国をその中心部から変えているのかもしれません。

<取材・文/羽田夏子 写真/Alan C.>

●はだ・なつこ/1984年東京生まれ。高校から米国に留学。ヒラリー・クリントンの母校であるウェルズリー大学を卒業後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科にて国際関係学修士を取得。国連機関インターン、出版社勤務を経て、翻訳編集プロダクションを立ち上げる。日本メンサ会員。

ハーバー・ビジネス・オンライン

最終更新:9/28(水) 9:10

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