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アーティスツ(1):会田誠の不安、村上隆の絶望 - 小崎哲哉 現代アートのプレイヤーたち

ニューズウィーク日本版 9/28(水) 12:51配信

<作家の意図をきちんと理解されない不安を抱く会田誠、世界標準ルールが日本では理解も共有もされていないことに苛立つ村上隆。日本の現代アートの現状と「世界標準」を考える>

 この夏に東京で開催された会田誠の個展『はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かさについて思いめぐらそうではないか。』(ミヅマアートギャラリー。2016年7月6日~8月20日)で、やや珍しいことがあった。アーティストが、自作について書いたテキストを印刷したA4のシートを会場に置き、希望者に無料配布したのである。テキストの題名は「『ランチボックス・ペインティング』シリーズについて」。新作は使い捨て弁当箱を支持体とした、すなわち、コンビニなどで売られている弁当のプラスティックケース上に描かれた絵画であり、それについての解説である。

 例えば「展覧会タイトルは岡倉天心が日露戦争直後に英語で書いた『茶の本』からの引用。国家・社会・歴史といったマクロなものに対して、個人・芸術・茶室(小ささ、狭さ)といったミクロコスモスの優位性、実質的大きさを説いた本と理解している。このシリーズの精神を代弁してもらった」

 あるいは「僕と使い捨て弁当箱の美術を介した関係は2001年横浜トリエンナーレにさかのぼる。搬入作業中に支給された弁当を食べ終わったのち、空き箱を見て、絵画のアナロジーを感じた(限定された四角い枠、仕切りと配置、具体的にはモンドリアンとの類似)」。さらには「プラスチック容器、発泡ウレタン、アクリル絵の具(のメディウム)----すべてを石油から化学的に作られた20世紀以来の物質に統一したかった」など。

 会田が自作解説を個展会場に置いたのは初めてではない。作品集にも、自筆の解説が必ず付される。レベルの高い小説を発表するほどの文章力がある作家であり、テキストを読むのは楽しいし、それを通じて作品と作家について学べることは多い。それにしても、ちょっと驚かされた項目があった。「参照したアーチストの一例」という項目である。



会田誠の不安

「★マルセル・デュシャン→使い捨て弁当箱という前提、レディメイドとしての大量生産工業製品。★ゲルハルト・リヒター→→具象画と抽象画の分離。★ジャクソン・ポロック→重力と偶然にかなり依拠したドリッピングという技法。★河原温→作品サイズ、展示スタイル、方法の限定。★ゲルハルト・リヒター、白髪一雄、デ・クーニング、中村一美など→アンチとしての大画面、絵の具の大量消費。★岡崎(※ママ)乾二郎、彦坂尚嘉など→絵画の分析それ自体の提示。★村上隆、ロイ・リキテンシュタインなど→本物の筆触ではないという意味で、人造的な絵画制作法。★ジェフ・クーンズ、ダミアン・ハーストなど→キッチュ感覚、アートマーケットを小馬鹿にしたような姿勢。----など。」

 こうした「参照例」を作家自らが明らかにすることはあまりない。営業秘密というわけでは必ずしもない。現代アートにおいては、先行作品を参照することは悪徳ではなくむしろ当然と見なされる場合が多いからだ。ただ、こうした背景事情を明かす行為は、コアなアートファンには興醒めと受け止められかねない。「はは~ん、これは誰それを下敷きにしているな」とか「このモチーフは誰それの引用だ」などと読む(深読みする)のが、現代アートの楽しみのひとつだという共通認識があるからだ。

会田誠展「はかないことを夢もうではないか、そうして、事物のうつくしい愚かしさについて思いめぐらそうではないか。」 MizumaArtGallery


 では、なぜ会田はこんな項目を立て、アーティストの名をいくつも挙げたのか。テキスト自体が作品の一部だとか、観客やメディアを意図的に攪乱するものだとか、悪ふざけだという可能性もなくはない。だが、そんな邪推をするよりも、本人に直接聞いてみるほうが早いだろう。「以前は個展ごとにこうした解説があったような記憶があります。図録に収録したテキストを除くと、いつ以来でしょうか。なぜ久しぶりに自作解説をしようと思ったのでしょうか」という問い合わせのメールに、作家は以下のように答えてくれた。
 
「(1996年の)NO FUTURE以来でしょうか...? さすがに今回のばかりは必要か、と思いまして。理由はうまく言えませんが、ふざけた作品と誤解されることを避けたかったのが一番だったでしょうか。
 作っている最中に列挙したアーチストが頭に去来しました。今回は僕には珍しくコレクターに買ってもらうことを想定して作ったこともあります。この作品のアートワールドの中における位置、みたいなものを、他との関係から特定したかった」

 表現者には、ジャーナリストからの質問に真面目に答えない者がいる。サービス精神を発揮して受けそうな冗談や作り話を返す者もいる。会田の回答を虚偽や韜晦と見なすことは不可能ではないが、僕は誠実に答えてくれたと受け取った。「理由はうまく言えませんが」というあたりに、とりわけ誠意を感じる。



「ふざけた作品と誤解される」おそれ

 会田は、暴力、エロ、社会風刺などを主題として取り上げることが多く、その作風ゆえにトリックスター的、あるいは一発芸的な作家と見なされることもある(僕も会田をよく知らなかった時期にそんな印象を持っていた。不明を恥じている)。だが本当は、入念にコンセプトを考え、作品によってはアート史からの引用を行い、厚いレイヤーの作品づくりを目指す、現代アートの王道を行くアーティストだ。しらふのときは口下手で口数も少なく、酔いすぎるとオヤジ臭くくだを巻くこともあるけれど、ほろ酔い気分のときは骨太の正論を(ときに辛辣な、ときに外したジョークを交え)説得力ある語り口で述べる。軟弱者を装っているが、実はアート以外に文学やマンガや世相に詳しい硬派の論客である。

 東京都現代美術館で起こった「作品撤去要請問題」は、以前に書いたとおり理不尽ないちゃもんに巻き込まれた形だった。森美術館の回顧展では、「性暴力性と性差別性に満ちた作品が多数、展示されて」いるとして「ポルノ被害と性暴力を考える会」に美術館宛の抗議文を送られたり、ツイートを「無断転載」したとされる作品がソーシャルメディアで叩かれたりした。だが、今回心配しているのは、こうした批判のもととなった「誤解」とは次元が異なるものだろう。
 
 ランチボックス・ペインティングがどのようなものであるのかは、これまでの説明や引用で概ねわかっただろうが、要するに、普通は捨てられるかリサイクルに回されるかしてしまうペラペラのランチボックスがキャンバス代わり。そこにウレタンを貼り付けてブラッシュストローク(勢いのある筆の運びの跡)のような形を作り、表面にペイントを施して絵具を厚塗りしたかのように見せかけたものだ。

 会田には「美術に限っていえば、浅田彰は下らないものを誉めそやし、大切なものを貶め、日本の美術界をさんざん停滞させた責任を、いつ、どのようなかたちで取るのだろうか。」と題する絵画がある。長い題名で知られる岡﨑乾二郎の厚塗り抽象絵画シリーズを、岡﨑の畏友とも呼ぶべき批評家の名をタイトルに取り込んで揶揄したとも取れるパロディ作品だが(本人は、ART iT2008年10月号所収の内田伸一によるインタビューで「挑発なのかラブコールなのかわかりづらいもの」と語っている)、ランチボックス・ペインティングは、その延長線上に位置するものかもしれない。とはいえ、素材の安っぽさは、そうした読み(深読み)を阻害する可能性がある。「今回ばかりは」「ふざけた作品と誤解されることを避けたかった」というのは、それを危惧したがゆえの思いではないか。

【参考記事】美学はどこへ行った?(2):ボリス・グロイスの理論観

「ふざけた作品と誤解される」おそれのあるものは過去にもあり、図録に収録されるまでは自作解説が付けられなかったものも多い。メールにある「この作品のアートワールドの中における位置、みたいなものを、他との関係から特定したかった」というくだりも、現状に対する会田の不安を示唆していると思う。「コレクターに買ってもらうことを想定して作った」という一文は、「コレクターには、作家の意図をきちんと理解してもらった上で購入してもらいたい」と読み解くべきだろう。さらには、昨今の批評やアートジャーナリズムへの落胆も含まれているのかもしれない。ボリス・グロイスが言うようにアーティストは理論を求めている。ところがジェリー・サルツやエイドリアン・サールやハル・フォスターが慨嘆するとおり、批評を読む者は激減している。ほかならぬアーティストを除いて、ギャラリストを含む業界人でさえ理論や批評を読まない。



村上隆の絶望

 グロイスやサルツらは欧米圏で活動する批評家だが、日本の状況はさらに悪い。村上隆は、おそらくは会田よりも深く、日本のアートジャーナリズムに絶望している。以前にREALTOKYOに書いたことだが、2014年2月に東京で開催されたシンポジウムでは、「日本の状況には絶望した。アート作品は欧米の現代美術の専門家に対して作り、日本ではアニメで勝負する」「日本のアートジャーナリズムやオーディエンスは、現代美術においては『文脈』の読解こそが最重要であることを理解していない。現代美術とサブカルを安易に結びつけてほしくない」と語り、その後も同じ趣旨の発言を繰り返している。

 村上の「『文脈』の読解」という言葉遣いは間違っているが、言わんとすることは伝わるだろう。正確には「現代美術の鑑賞においては作品がアート史的な文脈にどのように位置付けられているかを読解することが重要」である。2006年に刊行した自著『芸術起業論』から引くなら、「(日本人は)欧米の芸術の世界のルールをふまえていな」い。あるいは、2010年に上梓した『芸術闘争論』に書いた言葉を引き写すなら「(日本の若い人が)作家になりたいのであれば、(中略)芸術=西欧式ARTのルールを知ることです」。村上には明らかに、世界標準ルールが日本では理解も共有もされていないことへの苛立ちがある。だから語る。本も出す。まともな批評が出ない状況に絶望しつつ不満を述べる。

村上隆 Vincent West-REUTERS 2009

 批評自体に興味のない、あるいはそう言い張る作家もいる。僕が直接聞いたのは、世界的に活躍するある人気アーティストの言葉。「新しい作品のために着想を練ったり、実際につくったりするのに忙しくて、批評を読んでいる時間などない。いずれにせよ、歴史的評価はいずれ定まる」というものだ。よく知られたところでは、アンディ・ウォーホルの「自分について書かれたことを気にする必要はない。どのくらいのスペースか測るだけでいい」という発言もある。本気か韜晦かシニシズムかは、もちろん本人以外にはわからないが、僕は両方とも本音の発言だと考えている。とはいえ大多数の作家は、(グロイスが言うように)自作の批評を望んでいるはずだ。自らの制作意図を正確に把握した上で、肯定的に、建設的に、そしてできうるなら大絶賛する批評を。

 欧米の現役アーティストには会田や村上のような悩みはあるのだろうか。久しぶりにアートレビューの「Power 100」を覗いてみよう。2015年度は、ベスト20までに5名のアーティストが入っている。2位の艾未未(アイ・ウェイウェイ)、8位のマリーナ・アブラモヴィッチ、11位のヴォルフガング・ティルマンス、14位のジェフ・クーンズ、18位のヒト・スタヤルだ。この内、上位の4名にはそんな悩みはないとほぼ断言できる。



アイ・ウェイウェイとアブラモヴィッチ

 アイ・ウェイウェイはアーティストとしての活動とアクティビストとしての活動に違いはないと明言し、批評家よりも体制との戦いに忙しい。彼の作品を世界標準ルールから見てアートと言えるかどうか疑っている批評家やジャーナリストもいるにはいるが(例えばテレグラフのアラステア・スマート)、中国現代アートをよく知る批評家でキュレーターのフィリップ・ティナリは当初から西洋の視点で評価している。ニューヨークのアートスクールで学び、マルセル・デュシャンに影響を受けたアイ・ウェイウェイは、2000年に馮博一(フォン・ボイ)とともにグループ展『Fuck Off』をキュレーションした。ティナリによれば、このとき以降アイ・ウェイウェイは「デュシャンからヨーゼフ・ボイスの方向に舵を切った」という(アートフォーラム2007年夏号「A KIND OF TRUE LIVING: THE ART OF AI WEIWEI」)。エイドリアン・サールも、2015年の後半にロンドンのRCAで開催された個展についてのレビュー(2015年9月14日付ガーディアン「Ai Weiwei review - momentous and moving」)で、デュシャンの名を引用しつつ「これまでに観たアイ・ウェイウェイの展示の中でベスト」と激賞している。

アイ・ウェイウェイ Alessandro Bianchi-REUTERS 2016

 アブラモヴィッチは最近、オーストラリアの先住民(アボリジニ)に対する過去の差別的発言が糾弾されたり、かつてのパートナーであるウライとの共同制作作品の著作権をめぐる訴訟で負けたり、とマスコミを騒がせているが、アーティストとしての評価はほぼ定まったと言っていい。いまや、レディー・ガガなど同時代の若い世代に影響を与える存在となった現代最高のパフォーマンスアーティストは、デビュー当初から、ダダ、デュシャン、フラクサスに影響を受けたと公言。ファインアートを専門とする批評家の中には彼女を認めない者もいるが、アブラモヴィッチ自身が、自らリスペクトするブルース・ナウマン、ヴィト・アコンチ、ヨーゼフ・ボイスらの代表的パフォーマンス作品を再解釈した作品『Seven Easy Pieces』(全公演を観た渡辺真也がレポートを書いている)を上演したこともあり、アート史に言及する作家として広く認められている。
マリーナ・アブラモヴィッチ Andrew Burton-REUTERS 2010



ティルマンスとクーンズ

 ティルマンスは、もしかしたら多少の不満を感じているかもしれない。2000年にターナー賞を受賞したとき、ジャーナリズムの反応は厳しかった。Face やi-Dなどの雑誌で仕事をしている「フォトジャーナリスト」に、なぜ英国でも指折りのアート賞を授与しなければならないのか? だが現在では(いまだに作家の私生活やゲイカルチャー、雑誌の誌面的な展覧会の構成に言及する伝記的・社会学的・印象批評的なレビューが多いとはいえ)、アート史に結びつける「西欧式ARTのルール」に則った批評も出てきている。例えばアーサー・ルボウは、ニューヨーク・タイムズに寄稿した記事(2015年9月25日「Wolfgang Tillmans Takes Pictures of Modern Life, Backlit by the Past」)の中で、現代生活を捉えるティルマンスの視点を、19世紀フランスの写実主義の画家、ギュスターヴ・クールベに比している(書き添えれば、男性の局部を撮影した自作とクールベが女性の性器をクローズアップで描いた「世界の起源」との関連性について、ティルマンスは2通りのやや異なる反応を見せている。フリーズ2008年10月号に掲載されたドミニク・アイシュラーによるインタビューでは「150年かそこら経っているんだから、露わにされた女性の股間という主題がギュスターヴ・クールベの専売特許だとは思わない」。他方、2014年3月11日付のART iTに掲載されたアンドリュー・マークルによるインタビューでは「クールベを参照したということはありません。私が写真作品を制作するとき、美術史を参照することが第一の動機となることはほとんどありません」と述べている)。

ヴォルフガング・ティルマンス DJM/FMS 2000

 ある批評家に「君は何にもわかっちゃいない。僕はとんでもない天才だ」と繰り返したというクーンズ(2014年6月30日付ニューヨーク・マガジン所収。ジェリー・ソルツ「Taking in Jeff Koons, Creator and Destroyer of Worlds」。ヴァルチャーに転載)は、アート史を参照しつつ作品をつくっているという点では上位4名の中でピカイチだ。当然ながらレビューにもアート史的な文脈付けが行われたものが多い。典型的なのは、2004年にアストルップ・ファーンリ現代美術館で開催された個展『Retrospektiv/ Retrospective』のカタログにアーサー・ダントーが寄稿した「Banality and Celebration: The art of Jeff Koons」。ここでダントーは「デュシャンからウォーオルを経てクーンズへと至るアートのコンセプチュアルな発展は、中断されつつも続いてきた、ガリレオからニュートンを経てアインシュタインへと至る科学の進歩のようなものだ」と記している。メインストリームであるというお墨付きだ。新聞やアート媒体に掲載されるレビューの中には、好悪がはっきり分かれる作家とあってエキセントリックなものも多い。ポルノ女優チチョリーナとの関係など、作家のスキャンダラスな言動にいまもって触れる記事もあるが、半ば以上はダントーの見立てに則ったものといえる。例えばロバータ・スミスは、2014年にホイットニー美術館で行われた回顧展のレビュー(2014年6月26日付ニューヨーク・タイムズ「Shapes of an Extroverted Life」)で、椅子とアザラシを組み合わせた『ポパイ』シリーズの1作からマルセル・デュシャンの『階段を降りる裸体』シリーズを思い出したと述べている。

ジェフ・クーンズ Lucas Jackson-REUTERS 2014



「理論家としての作家、作家としての理論家」

 スタヤルは、クーンズよりも明示的にアート史からの引用を行う。日本の『堂島リバービエンナーレ2015』でも展示された「リクイディティ・インク」(2014)では、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」やパウル・クレーの「新しい天使」がデジタル加工を施された上で画面に登場する。「Guards」(2012)では撮影場所としてシカゴ美術館を選んでいて、画面には必然的にヴィレム・デ・クーニング、マーク・ロスコ、サイ・トゥオンブリー、エヴァ・ヘッセ、ゲルハルト・リヒターらの絵画が映し出される。批評家やアートジャーナリストがそれらを見逃すわけもなく、スタヤル作品は自ずとアート史の中に位置付けられることとなる。クーンズの『ポパイ』からデュシャンを連想したロバータ・スミスは、2014年の夏にニューヨークで開催された個展『HOW NOT TO BE SEEN: A FUCKING DIDACTIC EDUCATIONAL INSTALLATIONのレビュー(2014年7月17日付ニューヨーク・タイムズ「Hito Steyerl: 'How Not to Be Seen'」に「オプ・アートを想い起こした」と書いた。もちろん、そのような(モノクロームで幾何学的な模様の)作品が展示されていたのである。

 だがスタヤルは、5名の中では例外的な存在である。作品を発表するかたわら、自ら精力的に文章を書き、発表するからだ。アートレビューのリストで、名前の脇に付された説明文は簡潔明瞭である。「理論家としてのアーティスト、アーティストとしての理論家」。さて、この「アーティスト」は、なぜ、どのように「理論家」なのだろうか。

小崎哲哉

最終更新:9/28(水) 18:01

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