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第11回【蓮華定院その1】昌幸・信繁が高野山に配流になった際、最初に逗留した寺院 『真田三代』 (火坂雅志 著)

本の話WEB 10/2(日) 12:00配信

 今年1月10日から放送開始したNHK大河ドラマ「真田丸」は三谷幸喜の斬新な脚本とコミカルな演出、俳優たちの名演・怪演により高視聴率を記録。真田幸綱(幸隆)・昌幸・信幸・信繁(幸村)の活躍を描いた『真田三代』(火坂雅志 著)も放送開始以来、順調に部数を伸ばしている。

 ネット上でも毎回放送中から真田丸の感想、ツッコミ大会で盛り上がっており、9月11日放送の回では天下分け目の合戦・関ヶ原の戦いがわずか50秒で終ったことが大きな話題となった。そして豊臣方についた真田昌幸・信繁親子は死罪こそ免れたものの、徳川から高野山への蟄居を命ぜられ、いよいよ物語の主舞台は九度山・大坂へと移ることになる。

 というわけで、この連載企画も今回から関西編に突入。高野山・九度山、大阪周辺の真田氏ゆかりの地を現地の郷土史家や歴史ガイドと一緒に訪ね、写真とともに紹介していく。

 関西編第1回は関ヶ原の戦い後、高野山への配流処分となった昌幸・信繁一行が最初に逗留した蓮華定院だ。

 関ヶ原の戦いで豊臣方についた昌幸・信繁は、直接戦闘には参戦していなかったが、上田城で徳川軍の主力である秀忠軍を迎え撃ち、これを撃破(第二次上田合戦に関する詳細は「第8回【信濃国分寺/大輪寺】敵味方に別れた親子が会見した地と信繁(幸村)の母が眠る寺」参照)。その結果、信州に足止めされた秀忠軍は関ヶ原に間に合わなかった。1度ならず2度までも真田に煮え湯を飲まされた家康は関ヶ原の戦いの後、昌幸・信繁親子を死罪に処するつもりだったが、徳川方についた信繁の兄・信之やその妻らの必死の助命嘆願により、高野山への配流に減刑されたと考えられている。当時、戦や政争に敗れた者が高野山に追放されて出家を命じられるのは定番のケースだった。かくして慶長5年(1600)12月13日、昌幸と信繁は上田城を退去して山上の宗教都市・高野山へと赴くこととなった。

 その昌幸・信繁一行が高野山に入ってまず逗留したのが蓮華定院である。それはごく自然な成り行きだった。蓮華定院は真田氏と長くて深い縁がある寺だったからだ。縁の始まりは今から遡ること約500年前の大永2年(1522)。大永1年(1521)、高野山で大規模な火事が起こった。大規模な寺院400、中小の寺院3900、合わせて4300もの寺院が焼失した。ちなみに現在は100ほどの寺院しかない。当時の高野山は端から端までびっしりと寺院が建ち並ぶ、想像を絶する山上の宗教都市だったことがわかる。しかしそれが災いして1つの寺院から出た火は瞬く間に数千の寺院に燃え広がり、多くの死者を出してしまったのだ。

 その大火事の翌年に、高野山の復興を目的とした資金集めのため使者が全国に派遣された。その中で、信州を担当した僧侶は、当時小県・佐久地方で最も強い勢力を築いていた海野氏を始め、多くの地方豪族と宿坊の契約を取り付けた。これは蓮華定院にとって大きな固定収入の1つになったはずだ。そして海野氏は真田氏の祖先である。昌幸が真田家の当主になった時、かつて祖先がそうしたように自分も蓮華定院との間で宿坊の契約を更新した。その約定は今も蓮華定院に残されている。

 このような経緯があるので昌幸・信繁は高野山蟄居に際して、まずは先祖代々宿坊にしている蓮華定院に身を寄せたというわけなのだ。ただし現在の蓮華定院は当時の建物ではなく、江戸期に火事で焼失してしまった後、同じ場所に同じ規模、同じ構造で再建されたもの。昌幸・信繁が逗留していた期間は定かではないが(数カ月程度だと考えられている)、その間の生活を偲ぶことができる部屋や資料が残されている。宿泊者限定だが見学できるし、蓮華定院の寺務所で依頼すれば説明してもらえる。また、寺院の裏手には信之とその息子信政の墓所がある。

●上段の間
 昌幸や信繁が客人との公的な食事や面会の際に使っていたといわれる部屋を忠実に再現したもの。昌幸・信繁は高野山を下りて九度山で暮らすようになってからも、蓮華定院と九度山を往復していたのでよく使用していた。確かに襖絵や調度品などは豪華で格調高く、一国一城の主の部屋といった趣だ。一段上がっている場所に昌幸が座り、下の畳に信繁や重臣や住職が座って食事をしたり、談義を重ねていたと考えられている。当時の部屋そのものではないが、こういうところで昌幸・信繁が生活していたのかと想像するだけでも胸が躍る。

●真田親子の肖像画の謎
 上段の間には真田親子の肖像画が掛けられている。世間一般的には向かって左は昌幸、中と右は信繁と広く知られているが、蓮華定院の添田隆昭住職によればその認識は間違いで、正しくは左から信之、信繁、信綱(昌幸の兄)だという。その根拠は、これらの肖像画は拡大複製されたもので原画は蓮華定院に保管されているが、昌幸とされている原画はもう1本の巻物とともに箱に収められていた。広げてみると女性の肖像画で、顔の上に南無阿弥陀仏とあるが、墨で書かれた文字ではなく、人間の髪の毛を縒り合わせて貼り付けられたもの。松代藩の正式な資料によるとその女性は信之が93歳で亡くなるまで身の回りの世話をした女性で、「自分の肖像画に自分の髪の毛を縒り合わせて南無阿弥陀仏と貼り付けて、信之の肖像画と一緒に高野山に納めた」と書いてある。そして何よりこれらの肖像画が収められた箱には「信之公」と書かれているというのだ。そもそも昌幸とされる肖像画の人物はどう見ても80~90歳の老人。昌幸の享年は64、信之は93歳。蓮華定院には信之の大五輪塔も現存する。ゆえに、この人物は昌幸ではなく晩年の信之と見てまず間違いないだろう。ちなみに真田氏の地元・上田でも古くからこの肖像画は昌幸だと伝わっているが、上田市が運営する上田市デジタルアーカイブポータルサイトの真田氏資料集でも、「画像は蓮華定院の伝来通り信之のものではあるまいか。再検討の必要があるかと思われる」と記載されている。

 また、一番右の信繁とされている肖像画も箱書きには、昌幸の兄で長篠の戦いで戦死した「信綱」とある(信綱に関しては第3回【信綱寺】「真田三代」の二代目になるはずだった男が眠る墓を参照)。ちなみに、添田住職によれば2016年4月29日から6月19日まで江戸東京博物館で開催され、9月17日から大阪歴史博物館でも開催されている「2016年 NHK大河ドラマ特別展 真田丸」でも、一番左の肖像画が信之で、一番右が信綱と説明書きがされているという。このような「人違い」が起こったのは、長い年月の間に多くの人々によって模写される過程で間違った情報が伝えられたためだと考えられる。近年、長らく教科書に掲載されていた足利尊氏や源頼朝などおなじみの歴史上の人物の肖像画も実は別人だったという事実が判明したのも同じような理由からだろう。

 さらに添田住職の見解では、真ん中の信繁とされる肖像画も「あやしい」。確かに「好白」は信繁が得度して得た僧名なので、一見正しいように思える。しかし肖像画には「真田左衛門助幸村画像、旧図によってこれを写す」と書かれており、つまりこれも模写されたもの。描かれた時期は「時に慶長丁卯の年、四月」と記載されてあるので、添田住職が正確な年を知るために調べてみたところ、慶長に丁卯という年はなかったという。

●真田御一家過去帳
 上段の間に展示されている「真田御一家過去帳」には、昌幸とその正室(山手殿)、側室の3人が同じ年の同じ日に生前戒名を作っていた記録が残されている。正室は、昌幸が高野山へ配流されても同行せず上田に残っている。側室の動向は記録が残っていないため不明だが、3人一緒に生前戒名を受けたにも関わらず、側室までもが上田に残っていたとは考えにくいので、九度山で共に暮らしていたのではないかというのが添田住職の見方だ。

 その他、昌幸が長篠の戦いの17年目、つまり2人の兄の17回忌に供養したという記録や、信之が亡くなった後、松代藩の家来たちが毎年蓮華定院まで赴いて亡くなったお殿様を供養しているという記録などが残されている。その他、信繁が戦場で実際に使っていたとされる兜の写真も置かれている。その兜は何の変哲もない楕円形の地味な物だが、確かに鹿の角を生やした兜などは実戦では使えないだろう。

●宿坊証文
 上段の間のそばには真田氏に関連する蓮華定院文書(複製)も多数展示されている。天正8年(1580)3月9日付の「真田昌幸宿坊証文」は、真田昌幸が自身の領内「真田郷」の住民すべてを対象に、高野山参詣の際には蓮華定院を宿坊にすることを定めて証したもの。ちなみにこの証文が現在見つかっている資料の中で、昌幸が安房守と名乗っている最も古い文書である。

●焼酎書状
 信繁が九度山に滞在中、真田家家臣・河原左京宛に壷に焼酎を詰めて送ってほしいと手紙に書いて送っている。「焼酎が漏れないように壷に目張りをしてほしい」「壷を2つ送るけど、あればもっとほしい」「お礼に粗末なものだけど、ゆかたびらを進呈する」などと書かれてあるところに信繁の几帳面な人柄がうかがえる。それにしても随分と焼酎にご執心だったと思うだろうが、当時は流人の身、酒といえばどぶろくくらいしかなかったから焼酎は貴重だったのだろう。ちなみに手紙は、いったん左端まで書いた後、まだ余白があるのになぜか最初に書いた文の行間に追伸が書かれてある。世の歴史家はよく判読できたものだと感心するほかない。

●真田信之・信政の墓
 蓮華定院の境内の裏には信之とその嫡男・信政を祀った墓地がある。お参りには宿泊せずとも行けるが、必ず蓮華定院の寺務所に声を掛けて許可をもらおう。後は案内板に沿って行けばすぐに墓地にたどり着く。

蓮華定院
所在地:和歌山県伊都郡高野町高野山700番地
電話番号:0736-56-2233
交通アクセス:南海高野線「極楽橋駅」から南海高野山ケーブルで終点「高野山駅」へ。南海りんかんバスで「一心口」下車徒歩1分
宿泊料:9000円~

取材協力/蓮華定院・添田住職、橋本市文化財保護審議会委員・岩倉哲夫氏、九度山町産業振興課真田丸推進室

文:山下 久猛

最終更新:10/3(月) 10:20

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TEDカンファレンスのプレゼンテーション動画

北朝鮮からの脱出
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