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“女帝”ブル中野にとって地球はちいさすぎた――フミ斎藤のプロレス講座別冊WWEヒストリー第192回(1995年)

週刊SPA! 10/3(月) 9:10配信

 “消えたスーパースター”というあまりいい意味では使われないマスコミ用語があるけれど、ブル中野はほんとうにもうちょっとのところで女子プロレス史上最大のミステリーになるところだった。

 全日本女子プロレス、というよりも女子プロレス界の絶対的な“女帝”の座に君臨し、スーパースターのなかのスーパースターとして日本、メキシコ、アメリカのリングで一世を風びしたブルは、ある日突然、プロレスファン(とマスコミ)のまえから姿を消した。

 1968年(昭和43年)1月8日、埼玉県川口市出身。川口市立芝東中学を卒業後、1983年(昭和58年)に全日本女子プロレスに入門し、同年9月、15歳でデビュー。1985年(昭和60年)、頭の左半分だけをきれいに剃り上げた変形モヒカン刈りと黒を基調としたフェースペイントで悪役にイメージチェンジし、ダンプ松本をリーダーとするヒール・ユニット“極悪同盟”に加入した。

 ダンプ、クレーン・ユウ、コンドル斎藤ら極悪同盟の主力メンバーが引退後は、キャリア5年のブルがリーダーとなって新ユニット“獄門党”を結成(1988年=昭和63年)。グリズリー岩本、アジャ・コング、バイソン木村ら後輩グループを新メンバーに迎えた。

 ブル自身は1990年(平成2年)1月、王座決定トーナメント決勝戦で西脇充子を下し“赤いベルト”WWWA世界シングル王座を獲得。ここから団体対抗戦路線がピークに達した1994年(平成6年)までの約5年間が全女におけるブルの全盛期だった。

 1980年代前半に大ブームを巻き起こしたクラッシュ・ギャルズ(長与千種&ライオネス飛鳥)の人気を支えていたファン層はもっぱらローティーンの女の子たちだったが、ブルはそれまで女子プロレスというジャンルに苦手意識を持っていた男性ファンを試合会場にひっぱり込んだ。

 理由はかんたんだった。ブルとその仲間たちがくり広げる全女スタイルのプロレスには、女子プロレスそのものに偏見を持っていた多くの男性ファンや目の肥えたマニア層をあっと驚かせ、うならせ、感動させるだけのホンモノの魅力と芸術性があった。そういう意味で“ブル中野”は従来の女子プロレスを超越した存在だった。

 “赤いベルト”WWWA世界王座は“怪物”に変身したアジャに明け渡したが(1992年=平成4年11月26日、川崎)、海外での活動を希望していたブルは同年6月、メキシコでローラ・ゴンザレスを下しCMLL世界女子王座を獲得。“赤いベルト”を失ったあとはチャンピオンベルトを必要としない天上人的なポジションに立った。

 全女を“卒業”したブルはその後、フリーの立場でWWEと契約し、アメリカを長期サーキット。WWEの全米ツアーの定番カードとなったWWE世界女子王者アランドラ・ブレイズ(メドゥーサ)とのタイトルマッチ・シリーズは東京ドームのリングでそのクライマックスを迎え、ブルがブレイズを破り同王座を手にした(1994年11月20日)。

 アメリカと日本を往復するようになったブルは1995年(平成7年)4月、北斗晶、豊田真奈美、吉田万里子の3選手とともに新日本プロレスの北朝鮮ツアーに同行。同年11月にはWWEのライバル団体WCWと契約し、翌1996年(平成8年)8月まで同団体のリングに上がった。

 しかし“女帝”の座に君臨していたはずのブルは翌1997年(平成9年)、なんの説明もないままプロレス界からフェードアウトした。1998年(平成10年)6月、中野恵子の名で『ブル中野のダイエット日記―19号サイズの私が9号サイズに』という単行本を出版。115キロから65キロへの50キロの減量に成功し、マスコミのまえに現れたブルはもう“ブル中野”ではなくなっていた。

 “中野恵子”はそれから5年後の2003年(平成15年)にも『ブル中野の「ちがう自分」になる本―今日からあなたも変われる』というタイトルの女性向け自己啓発系のエッセー集を出版し、それからほんとうにプッツリと消息を絶ってしまった。

 “ブル中野”と“中野恵子”はどうやら両立しないふたつの人格だったのだろう。ブルは“中野恵子”としての人生を選択し、プロレスラー“ブル中野”を封印したのだった。

 ブル、というよりも中野恵子はその後、アメリカでグリーンカード(永住権)を取得してフロリダ州オーランドに在住。ブル自身が“もうひとつの夢”と語っていたプロゴルファーへの転向は、公認ライセンスを持つレッスン・インストラクターという形で実現した。「もう日本には帰ってくるつもりはないらしい」「中野さんはもうだれとも会わないらしい」というウワサがまことしやかに流れた。

 どうやら、ブルは“ブル中野Bull Nakano”がどれくらいビッグなスーパースターであったかをまったくといっていいほど意識していなかった。プロレスから離れていた約10年間、テレビでもほとんどプロレスを観ていなかったという。

 いちどはアメリカに永住することを決心していたブルは、2010年(平成22年)2月に結婚して、なんの前ぶれもなく日本に帰ってきて、中野区中野に『中野のぶるちゃん』というお店をオープンした。現在の本名は青木恵子さんだ。

 ブルはようやく引退興行をする気になって、10カウントの引退セレモニーでリングのまんなかに立つために、体つきだけは半年がかりでかつての“ブル中野”のそれ――体重を100キロに増量――に戻し、2012年(平成24年)1月、正式に引退してリングを降りた。「ブル中野の試合はできないから」という理由で、あえて試合はやらなかった。

 JR中野駅と東京メトロ東西線・中野駅北口から徒歩5分の『中野のぶるちゃん』に行くと、ほんとうにブル中野に会える。カウンターは左右2列で、そのまんなかにスタッフが立っているドーナツ型の店内は、居酒屋よりもちょっとお洒落で、バーとしてはやや照明が明るい。やっぱりといえばやっぱり、女子プロレス各団体の興行ポスターが壁に貼ってある。

 全盛期のブルのイメージを頭に描いていると、そこに立っている背の高いママさんがブル中野だということに気がつかないかもしれない。もちろん、現役時代のようなメイクはしていないし、いまはすっかりスリムになっている。ブルは自分が“ブル中野”だということにとことん無頓着で、いつもフレンドリーでニコニコしているけれど、それでもやっぱり威厳がある。ブル中野は永遠にブル中野なのである――。

※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦 イラスト/おはつ

※斎藤文彦さんへの質問メールは、こちら(https://nikkan-spa.jp/inquiry)に! 件名に「フミ斎藤のプロレス講座」と書いたうえで、お送りください。

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最終更新:10/3(月) 11:09

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