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アニメ映画「聲の形」から考える「感動ポルノ」

メディアゴン 10/6(木) 7:40配信

小林春彦[コラムニスト]

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いまヒットしている話題のアニメ映画「聲の形(こえのかたち)」を観てきました。

原作は少年マガジンに連載された大今良時による漫画。本作は、「この作品は障害者を利用した健常者ウケを狙った『感動ポルノ』ではないか」という前評判や「聴覚障害者に対するいじめをテーマにしている内容の際どさから、弁護士や全日本ろうあ連盟と協議を重ね原作の掲載が一時見送られ、ようやく再開した」といった経緯がありました。

障害を持つ当事者として、この作品には筆者も興味をもっていました。

先天性の聴覚障害を持ち、補聴器をつけても会話はほとんど聞き取れず、発話も不完全で他者には内容が聞き取りづらい少女・西宮硝子が物語のヒロイン。

硝子は厳しい母親の方針で特別支援学校ではなく普通校でのインクルージョン教育(障害を持った子供が大半の時間を通常学級で教育を受ける)に通うことになります。しかし小学校のクラスメイトと上手くコミュニケーションがとることができず、度重なるいじめの末に転校を余儀なくされます。

そんな彼女が高校生になる頃、かつての小学校でいじめを行っていたガキ大将の男子生徒・石田将也と再会します。ところが、この将也も難聴の少女に行き過ぎたいじめを行っていたことが原因でクラスから断罪され、スクールカーストの下位に転落。それまで仲が良かった友人からもいじめを受け孤立していたのです。

いじめる側から、いじめられる側となり、過去に引け目を感じ自己肯定感の欠如から人とつながれずにいる将也。

コミュニケーションでの失敗を繰り返し、他人と意見をぶつけあうことが苦手な硝子。周囲との摩擦が起きれば、愛想笑いでごまかしたり、その場しのぎの謝罪を繰り返してことで、誤解を生み続けている人生です。

そんな二人が周囲にいる人たちとどのように繋がっていくのか、という不器用で人付き合いにも思い悩む思春期の一面を描いた・・・というのが本作の物語です。

ところで鑑賞前から様々な噂を聞いていましたが、個人的に鑑賞後に抱いた感想は、この作品のテーマは「障害者である」とか「いじめの是非を問う」という部分ではなく、むしろ「繋がりたいのに繋がれない」若者のコミュニケーションの難しさにある、というトコロにありました。

前評判で言われていた「感動ポルノ」とは、障害者の存在がメディアなどによって過剰に感動的に演出され、健常者の消費の対象になっているというものを批判した言葉です。

しかし、発達障害や精神障害などの「見えない障害」を抱えた人たちは、一見しただけでは他の人との違いや困難が分からないので、「感動ポルノ」どうこう以前に、そもそも感動や消費の対象にすら選ばれにくい現状があるわけです。

難聴もメジャーな障害とはいえ「見えない障害」のひとつです。物理的な困難より意思疎通に困難が生じやすく、自分の言いたいことが伝わらなかったり相手の気持ちが分かりにくかったりしてもどかしく感じることもあるでしょう。

本作では、奇跡的に耳が聞こえるようになったり言葉が話せるようになったという劇的なシーンはありません。では、この聴覚障害のあるヒロインの登場には本作でどんな意味があったのでしょうか。

この映画において筆者は、「障害」というものを少数派と多数派の間にある「距離」と考えます。この「距離」を調整する方法は2通り考えられます。少数者が多数派に近づくか、多数派が少数者に近づくか。この2つです。

「聲の形」でも硝子は手話に慣れているからコミュニケーションは手話でとりたいという一方で、クラスメイトは手話ができないためコミュニケーションは筆談で行いたいと衝突するシーンがありました。物語では、こうしたズレが「距離」を生んでしまったわけです。

後半でいじめられる側になった将也も健常ではありますが、自己肯定感の欠如から周囲との間に心理的な「距離」があり、コミュニケーションに積極的になれずクラスの中で少数派になってします。

ところで、映画が終わり、映画館を出てみると「難聴モノを扱っているのだから、本作は字幕が必要な映画なのではないか?」という話を他の観覧者たちがしているのも耳にしました。

字幕が邪魔で楽しめないという人がいるという理由で、聞こえない人に字幕がないことを我慢してもらう。反対に、字幕がないと内容が分からず楽しめない人がいるという理由で、字幕が邪魔な人に字幕が付くことを我慢してもらう。

筆者は今回の映画から「その人の障害の有無を知ることと、その人の生きづらさを知ることとは別のものである」という当たり前のことに様々な角度から再認識させられました。

また、「感動ポルノ」を強く批判する声の中には、「ここにも、あそこにも、困難を抱えている人はいる、困難は潜んでいる」ということを伝えたい、知ってほしいがゆえの「叫び」も混じっているように思います。目に見えないところにも、たくさんの困難がちりばめられている社会。

それなのに、わかりやすいハンディのある人だけが特別なステージを与えられ、スポットを浴びている。それが気に入らない。筆者自身も高次脳機能障害という「見えない障害」を抱えており、その叫びに一定の理解があります。

ですが、障害の種別や障害の有無とは関係なく「その人にとっては、それがそのとき最大なのだ」という生き辛さを誰もが抱えている。そしてその困難は当人以外に完全には理解しがたいものであります。

だからこそ「障害者だから」という古い枠を超えた自分の意志を言える社会の実現を目指す。それと同時に自分以外の周囲が持っているかもしれない困難に想いを馳せ、相手を尊重できるような人間に成長していかなくてはと、この映画を観て感じました。

小林春彦[コラムニスト]

最終更新:10/6(木) 7:40

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