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松坂から4安打、PL学園の核弾頭・田中一徳の後悔

Wedge 10/8(土) 12:10配信

 「たしかに、あの試合は人生のターニングポイントになったと思う」

 あの試合──それは、1998年夏の甲子園。延長17回の死闘の末に、平成の怪物・松坂大輔を擁する横浜高校がPL学園に勝利した試合のことである。18年経ってもなお色褪せることのないあの試合で、当時高校2年生だった田中一徳は、伝説の主役の一人だった。

 「あの日、朝3時半に目が覚めて、まだ真っ暗な心斎橋のホテルの屋上で1人でバット振ってね。試合が楽しみで楽しみで、抑えられなかった」

 同年春のセンバツ甲子園。田中は初めて松坂と対戦した。松坂が投じたスライダーにバットは空を切り、ボールはそのまま足に当たった。

 「こんな球、見たことない」

 野球を始めて以来最大の衝撃と、焦りにも似た闘争心が、一気に心を満たした。

 「この球を打てなきゃ、勝てない」

 来る日も来る日も、足に当たったスライダーを思い出し、バットを振った。

 「ちょっと、大袈裟にイメージしすぎてたのかな。実際の松坂さんが、大したことなく見えてしまった」

 はにかみながらそう振り返る。田中はこの試合、松坂から4安打を放った。あの松坂から4安打を放った2年生─。世間の田中に対する評価は一変した。溢れ出る向上心は田中を突き動かし続けた。

 「なんせ、野球が好きやったからね」

 兵庫県尼崎市で生まれ育ち、甲子園は常に身近にあった。松井秀喜の5打席連続敬遠も現地で目撃し、幼少期から野球は田中の人生そのものだった。

 「とにかく、もっと上を目指していた。現状に満足することなんて、ありえなかった」

 99年、横浜ベイスターズからドラフト1位で指名を受け、入団した。

 アマチュア球界では常にトップを走ってきた田中であったが、プロ野球という世界は、そこにいる全ての人間がかつてそうであった者の集まりである。身長165センチという体で戦っていくには、自ら生きていく道を探さざるを得なかった。

 「自分のポジションは何だろうって、勝手に判断し始めたことが、自分の成長を止めたと思う。代走でも、守備固めでもいいから、一軍にいたかったからね」

 入団当時の横浜は、前年に38年ぶりの日本一を達成したばかりで、レギュラーはおろか、控え選手も全て、脂が乗った全盛期。1軍メンバーに入ることさえ、至難の業(わざ)であった。何とか生きる道を探そうとすることは、必然だったのかもしれない。しかし、そんな状況でも、高卒ルーキーながら1軍に食い込んでいく。3年目には112試合に出場し、チーム内での存在感も強まっていった。

 4年目。田中を取り巻く環境が、少しずつ変化し始めた。監督が代わり、起用方針が変更。田中は2軍にいる時間が長くなった。

 「仕事の場を奪われる恐怖と、なぜ自分が試合に出られないのかという感情が混ざって、心が荒れていった」

 やる気とは裏腹に、試合には起用されない現状を変えられずにいた。モチベーションをどこにおいて良いか分からず、不満をぶつける機会さえ与えられず、ただただもがき苦しんだ。

 「当時は若くてイケイケだったからね。人の話も聞けず、ただ不貞腐れていた。でもね、今ならわかるよ。そんな人間、ますます試合に出れねぇじゃんって」

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最終更新:10/8(土) 12:10

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