ここから本文です

史実の「水戸黄門」は、若いころグレにグレていた! 遊郭三昧、気に食わなければすぐ抜刀

現代ビジネス 10/8(土) 11:01配信

せいぜい鎌倉どまりの諸国漫遊記

 「ここにおわすお方をどなたと心得る。畏れ多くも前の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!」

 先代の水戸藩主・徳川光圀が、身分を隠しながら諸国を漫遊。善良な市民を苦しめる代官や、悪徳商人を懲らしめる。

 国民的時代劇『水戸黄門』の1200回を超える放送で、黄門様はお供の助さん格さんを従え、北海道から鹿児島まで踏破。史上有数の、「旅人」のイメージを確立した。

 だが、よく考えれば、前藩主というVIPが、そう気軽に遠出をできるはずもない。とりわけ、当時の水戸藩は参勤交代を免除された、江戸定府の家柄。藩主は水戸に帰国する際、幕府に許可を得なくてはならなかった。

 実際の光圀が遠出した記録を当たってみると、鎌倉に養祖母・英勝院の菩提寺があり、ここに数度足を運んだというのが、せいぜいなのだ。

 ではなぜ、「漫遊」のイメージが定着したのか。

 実は、若い頃の光圀はグレにグレていた。かぶき者のような華美な着物を身に着け、江戸屋敷を抜け出しては遊郭に通う。気に食わないことがあればすぐ刀を抜いて暴れ、因縁をつけて人を切る。

 ところが18歳のとき、中国の歴史書『史記』を読んで感動したのを機に、人が変わったように勉学に打ち込むようになったという。

 そして、自身も歴史書『大日本史』の編纂を思い立ち、佐々介三郎という、助さんのモデルとなる儒学者を全国各地に派遣。史料の調査、収集をさせた。

 この佐々による調査が巷間に言い伝えられ、18世紀半ば頃になると、光圀本人が各地の大名の政治を視察する内容の小説『水戸黄門仁徳録』(作者不詳)が生まれる。

 それが幕末以降に全国的な広がりを見せ、現在の「黄門像」が定着したというわけだ。

 『大日本史』編纂は、なんと明治時代まで続けられ、もともと楽ではなかった水戸藩の財政に莫大な負担をかけ、光圀の死後、農民による大規模な一揆も起きている。

 史実の光圀は、ドラマの中で成敗されてもおかしくない、ダメ藩主だったのかもしれない。(岡)

 『週刊現代』2016年10月15・22日号より

週刊現代

最終更新:10/8(土) 11:01

現代ビジネス

記事提供社からのご案内(外部サイト)

「現代ビジネスプレミアム」

講談社『現代ビジネス』

月額1000円(税抜)

現代ビジネスプレミアムは「現代ビジネス」の有料会員サービスです。2万本以上の有料記事が読み放題!会員だけの特別記事も配信。豪華ゲストによるセミナーも開催中。