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『世界一キライなあなたに』がリアリティを持ち得た理由 荻野洋一が劇構造から読み解く

リアルサウンド 10/11(火) 16:00配信

 女性作家ジョジョ・モイーズのベストセラー小説「ミー・ビフォア・ユー きみと選んだ明日」(邦訳 集英社文庫)を、彼女がみずから脚本化した『世界一キライなあなたに』については、すでに日本のメディアでも女性的視点による数多くの記事があふれているため、この場で私は私なりに好き勝手に書かせてもらおう。なぜなら、それがこの映画にふさわしいリアクションだからであって、この映画はひたすら「好きにしろ」と言い続けているのである。ただし、未見の方のために物語の核心については口にチャックしている。私が語りたいのは劇構造そのものの枠組だけである。

 イギリスの田舎町でバイトをクビになったばかりの26歳ヒロイン、ルー(エミリア・クラーク)があらたに見つけた仕事は、介護の仕事である。自動車事故で車椅子生活を送る名家の一人息子ウィル(サム・クラフリン)を介護する。かんたんに言うと、ここから恋が始まる。つまり、おとぎ話である。労働者階級の娘と、城を所有するほどの名家の一人息子は、特に階級関係に厳格なイギリス社会においてはまったく接点がないだろう。しかし、首から下がほとんど不自由となってしまった彼のおかれた状態が、2人を出会わせるしくみとなった。この物語を聞いてすぐに思い出されるのは、近年では珍しく日本でもヒットしたフランス映画『最強のふたり』(2011)だろう。

 ただし同じおとぎ話でも、『最強のふたり』と『世界一キライなあなたに』とでは、メルヘンのリアリティに厳然たる違いがある。『最強のふたり』は全身不随になった富豪を、貧民街出身の黒人青年が介護するうち、2人のあいだに厚い友情が芽生えるという美談だ。しかし欺瞞的とは言わないまでも、『最強のふたり』がどこか空々しいシナリオだったのは、黒人青年のキャラクターが適度に不良で、適度に奔放、陽気で、ブルジョワ階級の白人にも「理解できる」範囲にとどめる策をとったからだ。そして作り手サイドは「これは実在の2人の物語です」と念を押す。黒人青年が主人公の邸宅で踊り狂う時に流す楽曲がアース・ウィンド&ファイアーであったことは、青年にとっては幸運だった。EW&Fはまさに白人にも理解できる黒人音楽だから。

 一方『世界一キライなあなたに』のメルヘンが、ある高次のリアリティに達しているのは、(奇妙な表現だが)ヒロインの野太いまゆ毛のためである。釣り上がったり下がったり、感情にあわせて忙しく上下する彼女のまゆ毛を見るにつけ、高慢な一人息子がこの女性を好きになるわけがない、と思える。身ぶり手ぶりが漫才師のようにコミカルである点も、なんとも「ダサ可愛い」ファッション感覚も、この御曹司とは不釣合いだ。本作で映画監督デビューとなるシーア・シェアイックはロンドン演劇界ではベテランの演出家で、数々の困難な作品を演出してきたが、今回の主人公カップルについて彼女は「ルーとウィルは典型的なイギリス人の両極のタイプ」と述べる。

 だけれども、お似合いなものは退屈だ。そのようにこの映画は力をこめる。柄物に柄物を合わせたりするミスマッチさを楽しんでいるかのような服を、ルーは毎日コーディネートして、ウィルの邸宅に出勤してくる。ようするに、彼女はミスマッチがなにがしかの化学変化をもたらすことを、本能的に知っているのだ。ウィルにとっては気の毒なことだが、自動車事故による障がいも化学変化。そして出会うはずのない者同士が出会ってしまうのも化学変化。さらに、この2人が毎日会うことによって、この2人じたいがある変化をこうむるだろう。

 ルーが好む「ダサ可愛い」ファッションを何着も揃えたのは、ウディ・アレン監督のいわゆる〈ロンドン三部作〉、つまり『マッチポイント』(2005)『タロットカード殺人事件』(2006)『ウディ・アレンの夢と犯罪』(2007)で衣裳デザイナーをつとめたジル・テイラーだ。テイラーは言う。「彼女はふざけているわけではなく、ちょっと風変わりなの。服の色彩が好きな個性的な女の子よ。彼女にとって、服のコーディネートはアートなの」 そんな風変わりで庶民的な快活さを、憂鬱なウィルは最初はうとましく感じただろうが、そんな冷笑的な人間観はだんだん吹き飛んでいく。

 この映画の元ネタは、おそらく『マイ・フェア・レディ』(1964)だろう。ジョージ・バーナード・ショーの戯曲『ピグマリオン』(1913年ウィーン初演)の映画化である。ロンドンの下町娘が大学教授とひょんなことから知り合い、教授の手ほどきで立派なレディに教育されていく。フランス映画『最強のふたり』は、ロンドンの階級差をパリの人種差に置き換えた変則リメイクであって、『世界一キライなあなたに』はそれをもういちどイギリス的な階級差に戻した上で、患者/介護人という関係を盛り込んだ。「私ならこの人を救えるわ」という武者ぶるいのような自己肯定感が、彼女を情熱的なメロドラマの主人公へと変貌させるだろう。

 ピグマリオン的メロドラマの肝心な点は、最初の時点では一方がもう一方に対して圧倒的な優位性を持っていること。教育水準の差であったり、階級の差であったり、人種の差であったり、問題は非常に保守的で、進歩的な観客が鼻白むメロドラマでさえある。ところが、両人がおたがいを知れば知るほど、一方の優位性は揺らいでいき、最終的には無化され、あまつさえ逆転の様相さえ呈するのだ。つまり、差がなくなり、両者は似たもの同士になってくるということだ。

 相互浸透という化学変化によって、両者は似たもの同士になる。でも同じにはならない。先ほども述べたように、お似合いなものは退屈だからだ。それではつまらない。だから「1+1=2」というリアリズムにも、「1+1=1」というおとぎ話にも落ち着かない。まさにウィルがルーに投げかける「落ち着くな。シマシマの足を誇れ」というメッセージそのものである。妥協的な人生に落ち着くことをよしとせず、「好きにしろ」と自分と相手に言い続ける。したがってこの映画における公式の正解は「1+1はいつまでも1+1のままであり続ける」というガンコさに尽きている。

 映画は最後に、大きな変化を求めようとする。それはウィルが奇跡的に治るとか、そういうバカげた化学変化なんかでは当然ない。安楽死が法的に認められたスイスのクリニックでみずから命を絶つことを希望してきたウィルの決心を、ルーは愛の力で翻意させることができるか、という最終的なサスペンスである。この映画は、あらゆる場面で「好きにしろ」というメッセージを登場人物たちに語りかけ、勇気づけてきた。でもルーはウィルに「好きにはさせないわ」「死んではだめ」と説得する。死というこの最大の化学変化のゆくえをめぐって、映画がどんな結末を用意してくれたのか。それはもちろん言うまい。実際に劇場で確かめていただきたい。(荻野洋一)

リアルサウンド編集部

最終更新:10/11(火) 16:00

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