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夏目漱石、新聞記者から驚くべきニュースを聞き心乱れる。

サライ.jp 10/12(水) 11:20配信

夏目漱石、新聞記者から驚くべきニュースを聞き心乱れる。【日めくり漱石/10月7日】

今から101 年前、すなわち大正4年(1915)10月7日、漱石は『時事新報』の記者の突然の来訪を受けた。何事かと思うと、記者は「津末ミサオさんが自殺を図った」と告げた。

驚くべき知らせであった。

津末ミサオは、紹介する者があって、去年、漱石のもとへやってきた女性だった。「門下生にしてほしい」という申し出だった。小説を書きたいというのである。

漱石は、文筆を以て世を渡るのは容易なことではない、ことに女子の身にては思いも寄らない、それよりはむしろ、田舎の両親のそばで暮らしていた方がいいのではないか、と諭した。断るための口実ではない。事実であった。同時代の文筆家・斎藤緑雨が残したこんな言葉がある。

「筆は一本、箸は二本。衆寡敵せず」

食べていくには二本の箸を使う。これを一本の筆で支えていくのは、その数からいってもなかなかできるものではない。そんな意味である。

ところが、漱石に諭されても津末ミサオは諦めきれず、今年の5月頃から木曜日の面会日となると自作の文章を持って現れ、漱石の批評を乞うようになっていた。書いてくるものは、だいたいが自己の半生の経歴めいた物語だった。

記者に談話を求められ、無碍に断ることもできず、漱石は、上記のような関わりがあったことを説明し、こんなふうに語った。

「性質は温和のように見受けられたが、時として感情が激するような傾向はあったかもしれない。つい2日前のある講演会を聞きに行ってみたらどうかと紹介したが、そこには出席せず、手紙が届いたのです。手紙には、『定まりなき旅路に出で云々』の文句がありました。それを見て、あるいは旅行にでも出かけたのかと思っていたのだが、まさか自殺を図るなんて思いもよりませんでした」

すでに彼女が絶命したものと思った漱石は、メモをとる記者に対して、沈痛な面持ちで最後に付け加えた。

「若き身空をはかなく終わったのは、なんとも気の毒で仕方ない」

漱石は、一高の教壇に立っていた頃、教え子の藤村操が華厳の滝で飛び降り自殺をするという事件に遭遇していた。その時のなんとも痛ましくやる瀬ない思いは、胸の底に消えることなく刻みつけられていた。

漱石の談話を含む時事新報の記事は、「新しき女の入水 夏目漱石氏の門に学び才媛の評あり」と見出しを打って、翌日に掲載された。後日、この女性が命をとりとめたことを知り、漱石先生、ほっと胸をなでおろしたのであった。

■今日の漱石「心の言葉」
あまり合わない背広を無理にきると綻びる(『吾輩は猫である』より)

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

矢島裕紀彦

最終更新:10/12(水) 11:20

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