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夏目漱石、趣味の謡を本格的に学ぼうと決意する。

サライ.jp 10/12(水) 14:20配信

今から109 年前、すなわち明治40年(1907)10月8日、漱石は高浜虚子宛てに手紙をしたためていた。

《拝啓 宝生の件は御急ぎに及ばず。いづれ落付次第こちらへ招待仕(つかまつ)る方、双方の便宜かと存候》

文中、「宝生の件」とは、下懸り宝生流の能楽師の宝生新を、謡の師匠として紹介してもらうという話。漱石はこの頃、趣味としてやってきた謡に、いっそう本腰を入れたいと思いはじめていたのだ。

宝生新はワキの名人といわれ、端正な容姿と美声で人気を集めていた。それに何より、その人柄がきさくで淡泊、うるさいことを言わなかったようだ。漱石の孫の半藤末利子さんの著書『漱石の長襦袢』に、こんなふうに綴られている。

《祖母の漱石夫人鏡子によれば、宝生新さんは月謝が安い上に食事を振舞うなどの面倒を要求しないきさくな家元だから、と高浜虚子さんに薦められて、漱石は出稽古をお願いするようになったのであるそうな》

ここに至るには、実はひとつ裏話がある。

最初、虚子は上懸り宝生流(シテ方)の名手・松本金太郎を推薦したというのだ。ところが、この人は大変な大酒家で、その上、やたらと多忙なため月謝もさぞかし高かろうと推測されたため、漱石の方が恐れをなし二の足を踏んだ。すると、それならばということで、より適任の候補として虚子が宝生新の名前を上げたのだった。

漱石が謡をはじめたのは、熊本時代の明治32年(1899)の終わりか翌年のはじめ頃からと推察されている。熊本五高の教壇に立つ同僚たちが、盛んにやっているのに影響された恰好だった。神谷豊太郎という化学の教師が指南役。最初に習ったのは、『熊野(ゆや)』の宗盛の素読だったらしい。

その後、欧州へ留学すると、なにかとフランス語の必要性を痛感させられる機会が多かった。漱石先生、鏡子夫人に宛てた手紙の中で、《謡ヲヤラズニ仏語ヲ勉強スレバヨカツタ》(明治33年10月23日付)と、ちょっと愚痴めいた調子で反省の弁を述べている。これも裏を返せば、熊本の漱石がかなりの時間を謡の練習に費やしていたことを意味しているのだろう。その反省はしばらく漱石の胸を領していたのか、帰国後もしばらくは謡をやってみようとは思わなかった。

再び謡をやってみたくなったのは、明治40年(1907)7月頃。そして、本格一流の師匠に習おうとするところまで、思いは高じていた。

このあと最晩年まで、謡を趣味とし続けた漱石先生。しかし、練習の成果は必ずしも上がらなかった。漱石門下の女流作家・野上弥生子は「先生の謡はお下手だった」と語っていたし、漱石自身も己の力量のほどは自覚していて、たまに他人から謡を挑まれたりすると、決まって高浜虚子に助け船を求めていたという。談話『稽古の歴史』の中でも、次のように語っている漱石先生である。

《一体謡曲くらい習わない人にとってつまらないものはないでしょう、それをすこしの御構いもなく、側に坐らせておいて一番も二番も謡って聞かせる人がありますがあれ程惨酷な事は世にありますまい》

■今日の漱石「心の言葉」
ただ教わっただけをその通りに唸るだけの事ですからね(談話『稽古の歴史』より)

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

最終更新:10/12(水) 14:20

サライ.jp

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