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三浦大輔の思いが横浜を強くする「199勝で終わってもいい。自分はもう一度優勝したい」

週プレNEWS 10/12(水) 6:00配信

横浜DeNAベイスターズの三浦大輔投手が、球団として初のCS(クライマックスシリーズ)進出を決めた翌日に突然の引退を発表した。“ハマの番長”の愛称で暗黒時代のベイスターズを支えてきた右腕は、最初から番長たりえたわけではない。

三浦がDeNAの前身、大洋ホエールズに指名されたのは1991年。奈良県の市立高田商業から入団したドラフト6位投手は、球速が140キロに満たず、変化球も少なかった。「番長の面影はなく、ポヨポヨとして頬が赤くかわいらしかった」(当時のチームメイト)という平凡な投手は、入団直後に「このままではプロで生き残ることができない」と危機感を抱いた。

チームに所属する約30人の投手のなかで、首脳陣の目に留まるために頭と体をフル回転させた。一軍のバッティングピッチャーを志願するなどアピールを繰り返し、その結果、1年目から一軍昇格を果たす。しかし、登板機会は巡ってこない。ルーキー三浦は、好投する同僚に「打たれろ、打たれろ」とベンチの中で願っていた。力のない自分がプロの世界で生き残るため、恥も外聞もなかった。

その年の最終戦でようやくプロ初登板を果たした三浦は、シーズン終了後、後の代名詞となるリーゼントへと髪型を変える。かねて矢沢永吉を敬愛していたこともあるが、「ベイスターズの三浦大輔をみんなに知ってもらいたい」という欲が高まっての決断だった。

目立つ以上は、結果を残さなければただの笑いもの。三浦は自らの生きる道を“キレとコントロール”に定め、必死にこれを磨いた。93年に初勝利、97年には初の2桁勝利と最高勝率。98年には日本一となるベイスターズのローテに入り、12勝を挙げた。

一方、黄金時代が到来すると思われたベイスターズは、脆(もろ)くも崩れていく。優勝メンバーは次々とチームを離れ、エースと呼ばれた野村弘樹、斎藤隆などもチームを去った。

手薄な投手陣を支えながら、三浦は2005年に12勝を挙げ、最優秀防御率と最多奪三振のタイトルを獲(と)り、誰もが“ベイスターズのエース”と認める存在となる。だが、本人は「僕はエースじゃない。15勝を続けて3年以上やれるのがエース」と、その称号を固辞。同時に、自らが理想とするエース像に近づこうと誰よりも勝利にこだわった。



しかし、三浦の思いに反するように、チームは翌年から10年間で7度も最下位となる大暗黒時代へと突入する。本拠地の横浜スタジアムには閑古鳥が鳴き、あがいても勝てない日々が続いた。多くの主力選手がFAやトレードで新天地へ移っていくなか、三浦も08年にFA権を取得。一時は父がファンだった阪神への移籍に心が傾くも、多くのファンが残留を懇願する姿を目にし、三浦は決意した。

「強いチームを倒すのが三浦大輔の野球」

この瞬間に、ベイスターズファンにとってエースを超える唯一無二の存在になった三浦は、200勝まで28勝を残して引退を迎える。

「199勝で終わってもいい。自分はもう一度優勝したい」

常々そう口にしていた三浦にとって、このCSは最後のチャンス。「日本一になって番長を胴上げする」という、奇跡の成り上がりを、横浜のファンは思い描いている。

(取材・文/村瀬秀信)

最終更新:10/12(水) 10:20

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