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「伊藤忠、何とかしろ!」 初の営業で年100億円の取引「ゼロ」に ファミマ沢田社長

NIKKEI STYLE 10/15(土) 10:40配信

入社2年目の1982年末に上司から米国への実務研修に行くようにと言われる。

 当時、海外研修に行くには語学や貿易実務などの試験に受かることが条件でした。実のところその試験に1つも受かっていなかったのに上司から「沢田君、とりあえずニューヨークへいってこい」と言われました。

 せっかくの機会です。米国のスケールの大きさを知りたかったので翌年の2月にはとても寒いニューヨークに旅立っていました。

 ところがニューヨークに来てすぐに「こりゃ、英語の勉強にならない。だめだな」と思いました。周りは日本人ばかりなのです。

 ならば考えるより行動です。地元の新聞の不動産広告で日本人が住んでいなさそうなエリアの物件を見つけて「ここに住みます」とニューヨークの上司に掛け合いました。

 上司は「認めない」の一点張り。「これまでそんな例はない。そもそも危険だ」と。何度か食い下がると「しょうがない。では日本人社員がほとんどいないヒューストンの事務所に行きなさい」と言ってくれたのです。

 当地では秘書の自宅に転がり込んで再スタートです。高校生のお子さんと庭でバスケットなんかもしました。英語は自然に身についていきました。ヒューストンで研修期間の10カ月が終了、帰国が決まった時は本当に残念でした。

仕事では同期の中で出遅れていた。

 日本に帰るとウレタン原料の受け渡しをする下積みの仕事。同期はもう花形の営業に何人も出ているのにです。そのうち後輩にも追い越されてしまいました。でも、ふて腐れてはいなかったね。それはそれなりに充実した仕事でしたから。

 営業に出たのは6年目です。欧米のメーカーから化学品を購入し、それを日本やアジアの取引先に渡す仕事です。ある先輩から「任せる」と言われ仕事を引き継いだのです。年間で約100億円の商売だったと思います。

 ところが半年ほどすると欧米のメーカーから「伊藤忠抜きでビジネスをする」と通告してきました。これで商談はゼロです。上司からはボロくそです。

 この欧米のメーカーは商売の勘所をつかんだようで、伊藤忠を外したほうが思いのままの値段で需要家に製品を供給できると踏んだのです。伊藤忠も取引先も舐(な)められたわけです。お客様からは「伊藤忠、沢田。何とかしろ」と突き上げを食らいました。

 悩みました。取引を切ってきた欧米メーカーに代わるウレタン原料の調達先を見つけなければ、取引先に大変な迷惑がかかります。

 そんな時、旭硝子が工場を増設してウレタン原料の生産能力を引き上げようとしていることを知りました。チャンスでした。ただ、同社は三菱商事と強いパイプがあり、ここに伊藤忠が割ってはいるのは並大抵なことではありません。

 しかしネバーギブアップ。日参が始まりました。
[日経産業新聞]

NIKKEI STYLE

最終更新:10/15(土) 10:40

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