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夏目漱石、弟子たちと秋の遠足にでかけて丸一日たっぷり楽しむ。

サライ.jp 10/15(土) 11:30配信

夏目漱石、門弟たちと遠足にでかけて丸一日たっぷり楽しむ。【日めくり漱石/10月10日】

今から108 年前、すなわち明治41年(1908)10月10日、41歳の漱石は、門弟たちとともに東京西部の八王子へ遠足に出かけた。

先に理学博士となった寺田寅彦がヨーロッパ留学に赴くことが決まり、そのお祝いと送別を兼ねた遠足であった。漱石と寅彦のほか、漱石門下の鈴木三重吉、小宮豊隆、野上豊一郎が同行した。

集合場所は、早稲田南町の漱石山房(漱石の自宅)。寺田寅彦は張り切って早朝に一番乗り。続いて、鈴木三重吉と小宮豊隆が人力車を連ねてやってくる。野上豊一郎は刻限ぎりぎりになってすべりこんできた。

5人はまずは新宿の停車場へ向かう。そこから午前10時過ぎの列車に乗り込み、昼前に八王子へ到着。大弓場で弓を引いたり、将棋を指したり、城跡に登ったり、コスモスの咲く河原を歩いたりして楽しく遊んだ。

料理屋での昼食も、松茸、鮎の塩焼き、煮物、刺身、きんぴら、きんとん等の皿が並び、そこにビールまでつけるという豪華版だった。下戸の漱石先生も、このときばかりは少しばかり祝いのビールに喉をしめしただろう。

午後6時過ぎまで八王子でたっぷり楽しんで、神楽坂まで戻ってきた一行は、なお別れがたく、島金という鰻料理屋の暖簾をくぐり蒲焼に舌鼓を打った。いやはや、なんと仲のよい師弟であろうか。

これだけの御馳走を続けざまに腹の中に入れたせいか、その後の漱石先生は、鈴木三重吉宛ての手紙に、

《八王子以来生活機能の降下を示し何にもたべる慾心これなし》

と綴るようなありさま。しばらくの間、1日1食に紅茶1杯というような食生活が続いたのだった。

なお、寺田寅彦が漱石から借り受けた大型トランクに荷物をつめてヨーロッパ留学に旅立つのは、翌明治42年(1909)3月25日。これに先立ち小石川の家を引き払い、妻子を郷里・高知に帰した寅彦は、夏目家にオルガンを預けていった。

漱石の長女・筆子はすでに先生についてピアノを習いはじめていたが、わが家に預かり置かれたこのオルガンを弾いて演奏の腕前をかなり上げたらしい。夏目家にピアノがくるのは、同じ年の6月30日。もしかすると、寅彦の預けたオルガンがひとつの呼び水となって、漱石は娘にピアノを買ってやることになったのかもしれない。

焦げ茶色の木製ボディに象牙づくりの鍵盤を持つ寅彦のこのオルガンは、今も高知の寺田寅彦記念館に残されている。

■今日の漱石「心の言葉」
遠足でもして俳体詩の紀行文でもやろうではないか(『書簡』明治37年10月19日より)

文/矢島裕紀彦
1957年東京生まれ。ノンフィクション作家。文学、スポーツなど様々のジャンルで人間の足跡を追う。著書に『心を癒す漱石の手紙』(小学館文庫)『漱石「こころ」の言葉』(文春新書)『文士の逸品』(文藝春秋)『ウイスキー粋人列伝』(文春新書)『こぼれ落ちた一球 桑田真澄、明日へのダイビング』(日本テレビ)『石橋を叩いて豹変せよ 川上哲治V9巨人軍は生きている』(NHK出版)など多数。最新刊に、『夏目漱石 100の言葉』(監修/宝島社)がある。

最終更新:10/15(土) 11:30

サライ.jp

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