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「期待はずれのドラフト1位」は、 なぜイタリア料理のシェフになったか

webスポルティーバ 10/15(土) 16:32配信

<1990年ドラフト 横浜大洋1位 水尾嘉孝>               

 1990年、前年の野茂英雄に続いて史上最高(当時)の契約金1億円で横浜大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団したサウスポーを憶えているだろうか? 150キロ近いストレートと多彩な変化球で、入団時は”ハマの大魔神”佐々木主浩以上の評価を受けた水尾嘉孝。

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 ところが、横浜では故障のため本来の投球ができず、監督の指令を拒否したことで働き場所も奪われ、飼い殺し。ファンの期待を大きく裏切ったドラフト1位のその後は……。

■史上最高の契約金1億円で1位指名を受けたが……■

──水尾さんは90年、福井工大4年生の秋に、横浜大洋ホエールズからドラフト1位指名されます。契約金は史上最高額(当時)の1億円でした。

「後にハマの大魔神と呼ばれる佐々木さん以上の評価だったので、重たいなと感じました。そのころは1位の選手で6000万円、佐々木さんでさえ8000万円と言われていましたから」

──90年のドラフト1位には、長谷川滋利投手(立命館大→オリックス)、岡林洋一投手(専修大→ヤクルト)といった即戦力もいましたね。

「私はプロ入り直前に腰を痛めていたので、入団後はそれを完治させることに専念するはずでした。ところがトレーニングコーチには『お前、体が弱いらしいな』と言われ、患部にしびれがあることを伝えても、『鍛えれば治るから』と言われる始末。腰は年々悪化し、ほかにも故障が続きました」

──プロ1年目の91年は一軍登板なし。92年は0勝3敗、93年は0勝1敗、94年も0勝1敗。鳴り物入りのドラフト1位なのに、さっぱり勝てません。

「故障の影響もあって、思うように投げられない日々でした。そんなとき、監督にサイドスローに転向しろと言われたのです。当時の横浜は監督の意向が絶対。逆らったら終わりです。でも、私はうなずくことができなかった。指示に従ってサイドスローに変えれば試合に出るチャンスは増えたでしょう。でも、それを拒否したのは、自分が後悔すると思ったからです」

──監督に背いたことで、どんな扱いをされましたか?

「二軍でも練習をさせてもらえなくなりました。練習メンバーからも外され、ブルペンでピッチングをすることもできない。私のボールを受けてくれるキャッチャーは誰もいません。全体練習の間はひとりでウェイトトレーニングをして、ほかの選手が引き上げてからバッテリーコーチに『受けてください』とお願いしました。はじめは『お前といると、上からにらまれるから嫌だ』と言われましたが、それでも頼み続けて、やっとピッチング練習に付き合ってもらえるようになったのです」

──どん底から浮上するきっかけは?

「そのとき、バッテリーコーチに『力任せに投げるのはやめろ。腰が痛くて脚が動かないから、動かないなりに、どうやったらいいボールが投げられるか考えろ』と言われ、イチからピッチングフォームをつくり直したのです」

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最終更新:10/17(月) 12:43

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