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第13回【真田庵(善名称院)】かつて昌幸が暮らしていた屋敷跡 『真田三代』 (火坂雅志 著)

本の話WEB 10/16(日) 12:00配信

 連載第11回でもお伝えした通り、高野山へ流罪となった真田昌幸・信繁親子とその家臣一行はまずは先祖代々の宿坊である蓮華定院に入りしばらく逗留した後、麓の九度山村に降りて生活するようになった。九度山では昌幸と信繁は別々に屋敷を構えて暮らしていた。「先公実録」によれば、昌幸の住居跡は「道場海東」と呼ばれていた。「海東」とは「垣内」の当て字で、村のお堂のような寺院を改修して屋敷としていたと思われる。現在、その場所に建っているのが善名称院だ。「真田庵」と呼ばれて多くの人々に親しまれている。

 昌幸の死後、100年以上経った寛保元年(1741)、大安上人という僧侶が修行中に森の中を通りかかったところ、飛来した一羽の白鷺から「屋敷を開いて地蔵尊の堂を建て、真田公を地主権現と仰ぎ祀るべし」と告げられた。その場所こそかつて昌幸の屋敷があったところだったのだ。大安上人はお告げ通り、この場所に善名称院を建てた──という伝説が残っている。その後、昌幸が暮らしていた場所だったので、真田庵と呼ばれるようになった。境内には、昌幸の墓と昌幸と信繁と大助を祀った真田地主大権現がある。

●昌幸の墓
 かつての地元の人たちが昌幸を偲んで建てた墓。遺骨は分骨され、上田の長谷寺にも埋葬された。そばには大坂夏の陣で討ち死にした信繁とその子・大助の供養塔も寄り添うように建てられている。

●真田地主大権現
 大安上人がこの地に寺を建てて住み始めたところ、怒りの形相の昌幸の霊が頻繁に現れるようになった。そこで昌幸の御霊をこの地の大権現の神様にして祀った。すると昌幸の霊が穏やかな表情になり、祀ってもらったお礼にこの地を守ると約束した──という伝説もある。当初は昌幸だけだったが、後に地元の人たちによって、信繁、大助も祀られたと考えられている。

●流人ながら異例の優遇を受けていた真田父子
 昌幸・信繁一行はどのくらいの人数で九度山に入ったのだろうか。残されている記録によると昌幸は側室を、信繁は正妻と側室と娘3人を連れてきている。家臣は16名。家臣は通常家族同伴で、池田長門守や高梨内記などの上級家臣は家族の他に従者も連れていたと考えられる。さらに記録にはない家臣もいたと見られるので、諸説あるが少なくとも50~60人、多くて80~90人ほどだったと考えられる。通常、高野山に流罪になった場合、出家遁世せよと命じられているわけなので引き連れて行ける家臣はごくわずか。さらに高野山は女人禁制なので女性もNG。ゆえに、女性を含めてこれほど大勢の家臣を引き連れていった真田氏父子は流人の中では異例中の異例といえよう。さらに高野山は寒いからという理由で蓮華定院の世話でじきに九度山村に降りて暮らし始めたことや、九度山村は同じ高野山領だから高野山蟄居と同等とみなすと認められたことからも、いかに真田父子が優遇されていたかがわかる。このような措置は他の流人では考えられない。

 そして九度山村で暮らし始めてからも、真田父子は比較的自由に行動していたと考えられている。『信濃史料』、『真田信繁』(平山優著)によれば、高野山(おそらく蓮華定院)で昌幸と信之が面談していたという。先程も記したように、真田父子の蟄居場所として九度山と高野山は同等と徳川のお墨付きをもらっているわけなので、昌幸たちが九度山と高野山を行き来することは何の問題もなく、ある日蓮華定院で「参拝」しに来た信之と「偶然」会った体にすればいくらでも密会することができる。もちろん信之だけではなく、他の要人とも同じように密会していた可能性は高い。あの蓮華定院の上段の間(第11回【蓮華定院その1】上段の間参照)で。そういった「参拝者」からの情報に加え、時々家臣を国許に戻してもいるので、蟄居の身でありながら必要とする情報には全く困っていなかったと想定される。さらに、昌幸は和歌山城下の「中ノ店」(現在のぶらくり丁)の次郎右衛門という町人と親しくなってしばしば会いに行っていたり、紀の川の上下五町を「真田淵」と称して水練に使用していた(「先公実録」)ことからも、かなり自由な暮らしぶりだったことがうかがえる。

 そもそも、家康が、自分から金を出させて作った上田城で2度も徳川軍を撃退し、関ヶ原の戦いでは石田軍に加担するなど、最後の最後まで家康に逆らった昌幸と信繁を死罪にしなかったことや、同じ配流にするのでも離島ではなく高野山にしたこともずいぶん甘い気がする。宇喜多秀家のように八丈島にでも流されたらどうすることもできない。

 その前に、関ヶ原の戦いの後、家康が昌幸、信繁親子の処分を死罪にすると命じた時、信之やその妻、岳父の本多忠勝が命懸けで昌幸・信繁の命乞いをしたとされ、そのシーンは『真田三代』でもドラマ「真田丸」でも劇的に描かれているが、『九度山町史』の編纂にも関わった地元の歴史家の岩倉哲夫氏によると、そもそも家康が昌幸、信繁親子を死罪に処すると言ったとされること自体があやしいという。その理由は、家康は本能寺の変で織田信長が倒れた後、武田の遺臣を雇い入れて南信濃と甲斐の国を労せずして領土にしていった。だから関ヶ原の戦いの後も、武田の元家臣の処分をさほど厳しくしなかった。そして真田家は元武田家の重臣。ゆえに真田父子は死罪にも島流しにも処せられることなく、九度山への流罪、しかも蟄居とは程遠い自由な生活をしていたというのだ。

●真田父子・家臣の暮らし
 では真田父子・家臣たちの九度山での暮らしはどんなものだったのだろう。関ヶ原の戦いの後、浅野幸長が甲斐16万石から九度山村のある紀伊37万7000石に移封されたが、この幸長の父、長政は秀吉と親戚関係だったことから、豊臣方とは親密な関係にあった。そのため、幸長から九度山村の真田へ毎年50石の米が送られていた(「先公実録」)。さらに松代の信之からも100石程度が送付されていたとみられているので、真田は合わせて毎年150石程度の米を得ていた。これが純然たる食料となるわけだが、江戸時代の扶持米で計算すると、150石で年間養える人数は80~90人。この事からも、九度山に来た真田父子、親族、家臣の総人数はその程度だったと推定される。

 さらに幸長と信之の合力米に加え、信濃の縁者、蓮華定院、地元の有力者などからも援助を得ていた。しかし、真田父子は国許などにさらなる米や酒、金品、諸物資などを無心する書状を送っている。このことから経済的には困窮していたと想像できる。

●当初は楽観的だった?
 昌幸は九度山に流された当初はかなり楽観的だったようだ。というのは、家康は関ヶ原の戦い後、全国の大名の処分に2年を要し、それらが終了した慶長8年(1603)、征夷大将軍になった。その時、恩赦があるのではないかという噂が広まり、処分された豊臣方についた大名たちは色めき立った。昌幸も慶長8年3月15日に国許の信綱寺に宛てて出した書状には、赦免されて国許へ帰る希望が書かれている。また、信之を通じて本田忠勝や井伊直政に自身の赦免運動をするよう働きかけていた。しかし実際に赦免された大名はごくわずか。改易された88の大名の中で復帰できたのは7家のみ。しかも、元の石高からは程遠い1万~3万石で復帰というお寒いものだった。

 ちなみに、慶長15年(1610)10月18日に忠勝が死去した際、その葬儀のため、昌幸は蓮華定院の僧侶を信之のもとへ派遣している(『真田家文書』上、『九度山町史』史料編)。その際、「蓮華定院には日頃世話になっているから十分にもてなすように」とも指示している。純粋に忠勝への謝意からの行動だとは思うが、したたかな昌幸のこと、徳川四天王に数えられ、家康の天下統一の最大の功労者の1人である忠勝の葬儀に蓮華定院の僧侶を派遣することで、家康の心証を少しでもよくしたいという企みもあったのではないだろうか。

●昌幸の死
 数々の努力も虚しく、九度山に流されて11年目の慶長16年(1611)6月4日、昌幸は国許へ帰ることを許されず、また、再び戦場で知略の限りを尽くして戦う機会を得ることなく、65歳で病死した。いくら元武田家の家臣ということで優遇されていたとはいえ、家康の昌幸に対する恨みと畏れは相当深かったということだろう。

 亡くなる直前に信之に送った書状には、九度山での不自由さや長年の流人生活で病気がちになり、床に臥せっている時間が多くなっていることなどが書かれている(『真田家文書』)。晩年は心身ともに弱りきっていた昌幸。その失意と絶望はいかばかりだったであろうか。ドラマ「真田丸」で描かれていたように、昌幸にとって強大な敵と戦い打ち負かすことや大名に復帰して真田氏を大きくする夢を奪われ、九度山でただ蟄居生活を送ることは死罪よりもつらい罰だったのかもしれない。

 昌幸は武田氏の家臣時代は武田二十四将に数えられるほどの活躍を見せ、武田氏滅亡後は自立し、織田氏、北条氏、徳川氏、上杉氏などの名だたる大名との命懸けの交渉・戦を重ねた。その結果、豊臣政権下でようやく所領を安堵され、信州のいち国衆にすぎなかった真田を大名にまで成長させた。大名としての真田氏は信之の存在によって大きくなり江戸幕府が消滅するまで続くが、厳しい戦国時代に真田氏繁栄の礎を築いたのは間違いなく昌幸だ。にもかかわらず、その晩年はあまりにも寂しすぎる。昌幸ファンの筆者としては、同情を禁じ得ない。

 昌幸の死後、その葬儀は九度山で身内や家臣のみでひっそりと行われた。蓮華定院の僧侶がお経を上げに来ている可能性も十分にあるだろう。流罪になったとはいえ、かつて全国にその名を轟かせた元大名の葬儀がなぜ密葬に近い形でしか行われなかったのだろうか。実は昌幸の訃報を受けた信之が徳川の重鎮・本多正信に「父の葬儀を執り行いたいのですがいかがでしょうか」とおうかがいを立てた手紙が残っている。しかし本多正信は「確かにお気の毒だが、天下にはばかる人(家康に逆らった人)だからやめておいた方がいい。弔うのは赦免になってからにするべきだ」と返答したため(『真田家文書』)、それに従い信之は断念したようだ。

 密葬で昌幸の遺体は荼毘に付された後、遺骨は屋敷の敷地内に葬られ、信繁は父の供養のために宝篋印塔を建てたといわれている。昌幸に従って九度山に来た家臣のうち14名は一周忌を機に信濃に帰り、松代に移封された信之の家臣になった。その際、昌幸の遺骨は分骨され、昌幸の家臣・河野清右衛門によって真田郷の長谷寺に奉納されたと伝えられている。(※長谷寺に関しては「第3回【長谷寺/信綱寺】真田三代の墓参りへ」を参照)

●二代目の松
 信繁は昌幸が死去した際、遺体を荼毘に付して屋敷の敷地内に遺骨を埋葬した。その時、墓印として松の木を植えたと伝えられている。初代の松が枯れてしまった後、地元の人の手で二代目の松が植えられた。それが現在、真田庵の境内にある「二代目の松」である。

●雷封じの井
 慶長年間、信繁が真田屋敷に落ちた雷を取り押さえて封じ込めて里人の難を救ったという伝説の井戸。実はこの井戸は真田庵の近くにある、大坂城に通じていたという「真田の抜け穴」(真田古墳)に繋がっていて、その入り口を隠すために「雷を封じ込めたからこの井戸を開けることを禁じる」と家臣や民衆に命じたというさらなる“尾ひれ”がついている。

 昌幸のほとんどの家臣たちは、昌幸の屋敷の周囲に居を構えて暮していたと考えられている。真田庵周辺を、この辺に家臣の屋敷があったんだなと思いながら散策するだけでも楽しい。

真田庵
所在地:和歌山県伊都郡九度山町九度山1413
問い合わせ先:0736-54-2019(九度山町観光協会)
交通アクセス:南海電気鉄道高野線「九度山駅」から徒歩10分程度

取材協力/岩倉哲夫氏、真田庵、九度山町産業振興課真田丸推進室

文:山下 久猛

最終更新:10/27(木) 11:50

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