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真田丸で激突した「もうひとつの赤備え」井伊直孝が戦いで得たすごい教訓

サライ.jp 10/16(日) 22:00配信

真田丸で激突した「もうひとつの赤備え」井伊直孝が戦いで得た生涯の教訓とは

大坂冬の陣で「真田丸」を守った真田信繁(幸村)率いる5,000人の真田隊は、甲冑や旗指物を赤一色で統一した「赤備え」として知られる。

この赤備えの元祖は武田信玄の重臣である飯富虎昌(おぶ・とらまさ)といわれ、赤備えは精強をうたわれた武田軍団の代名詞といえた。真田家は、もとは武田家の家臣であるから、信繁は武田軍団の誇りを継承する意味で、伝統の赤添えを採用したのだろう。

だが、ここに真田丸を睨みつけるもうひとつの赤備えの軍団がいた。近江(滋賀)・彦根18万石の井伊家である。大将の井伊直孝(いい・なおたか)はこのとき25歳で、亡き父の井伊直政は「徳川四天王」のひとりにあげられる名将であった。

武田氏が滅亡したのち、旧武田家臣は徳川家康が受け継いだあと、その多くは井伊直政に与えられた。そこで井伊直政は武田の赤備えを継承し、その勇猛さは「井伊の赤鬼」と畏怖された。直孝は、「われこそ赤備えの本家なり」という自負があったことだろう。

12月4日、真田丸の攻防が開始された。まず攻めかかったのは真田丸の正面に陣取った加賀(石川)の前田利常(まえだ・としつね)の1万2000名である。利常はこのとき22歳。利常の父は秀吉の天下取りに貢献した前田利家である。

この前田勢の動きをみて、井伊直孝隊4000名と松平忠直(まつだいら・ただなお)隊1万名も真田丸へ押し寄せた。松平忠直はこのとき20歳で、家康の孫にあたる。つまり真田丸を攻めたのは、いずれも偉大な父や祖父をもつ青年武将たちであった。彼らは先陣を争って真田丸に押し寄せ、兵たちは空堀に落ちて鉄砲の餌食となった。

各隊がたがいに意地をはったために退却が遅れ、結局、前田隊は先鋒と第二陣が全滅、井伊隊も数百名が討ち死にという大損害を被った。戦闘は、真田丸を守る真田隊の大勝利に終わった。

井伊直孝は、前田や松平に先を越されまいと、功を焦る気持ちが強かったのだろう。しかし、結果は自軍の兵を多く失うことになってしまったのである。この大失態に対して、徳川家康は武勇を称えるいっぽうで、無防備に攻めかかったことを叱責したという。

しかし直孝は、翌年の大阪夏の陣では面目躍如たる活躍をし、譜代大名筆頭の地位を確固たるものにした。のち、徳川第三代将軍家光の全幅の信頼を受けて幕政に参画し、75歳の長寿を全うした。

直孝が晩年に語った言葉をまとめたと思われる「井伊直孝御夜話(おんやわ)」には、主君への奉公についてつぎの言葉がある。

「自分の立身出世のためにする奉公は、うまくいかないときは主君を恨んだり同朋たちを謗(そし)ったりして、よくない企てを起こしがちだ。こういう者はいずれ主君の信頼を失い、友からも見限られて身を亡ぼしてしまうことが多い。

いっぽうで、主君の恩に報いるために奉公する者は、たとえ出世しなくとも不満はなく、人を恨むこともない。こういう者は自然の道理にかない、身も心もきっと健全であることだろう。こんなことは誰でも知っていることだけれども、若い者はよく覚えておくがいい」

この直孝の言葉には、若き日に、功を急ぐばかりに真田丸で手痛い目にあった教訓がこめられているのではないだろうか。

真田丸で激突したふたつの赤備え。井伊の赤備えの甲冑は、井伊家代々の藩主に引き継がれていった。

文/内田和浩

最終更新:10/16(日) 22:00

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