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傷だらけのドラフト1位が、人気球団の重圧から解放されて思うこと

webスポルティーバ 10/18(火) 12:07配信

<1999年ドラフト 阪神1位 的場寛一>

 金本知憲新監督のもと「超変革」を掲げた2016年の阪神タイガース。指揮官が変わったときのドラフト1位は特に注目されるが、1999年、名門再建を託された野村克也監督率いる阪神に1位指名(逆指名)されたのが、走攻守そろった九州共立大学のショート・的場寛一だった。

【写真】同じくドラフト1位で入団したが、苦節の時を過ごした水尾嘉孝さん。現在はシェフとして第二の人生を歩む。

 しかし、野村ID野球の中核を担うはずが、人気球団とドラ1の重圧と故障に苦しみ、プロ生活6年間で放ったヒットはわずか7本。力を発揮できずにユニフォームを脱いだドラフト1位のその後……。


■阪神ファン少年の将来の夢は「社会人野球」■

──的場さんは兵庫県尼崎市生まれ。当然、子どもの頃から阪神ファンですよね?

「テレビでは阪神の試合がいつも流れていたし、まわりも阪神ファンばかり。21年ぶりにリーグ優勝して、初めて日本一になった1985年は小学2年生でした。担任の先生も阪神ファンで、日本シリーズのときには授業をやめて、みんなでテレビを見たのを覚えています。もちろん、私も熱狂的な阪神ファンで、いつも阪神のユニフォームパジャマで寝ていたほど。でも、少し冷めていて、自分はプロ野球選手にはなれないだろうと思っていて、将来の夢は大阪ガスに入って社会人野球でプレーすることでした」

──愛知県の弥富高校(現・愛知黎明高校)に進みましたが、甲子園出場経験はありません。九州共立大学に進んでからドラフト候補として騒がれるようになりました。

「大学では1年春から試合に出るチャンスをいただきました。初体験の木のバットに戸惑いながら練習していましたね。柴原洋さん(元・福岡ソフトバンクホークス)が4年生にいて、『こんな人がプロに行くんだろうな』と思いながら。自分とはあまりにも差がありすぎたので『俺も!』とは思えませんでしたが、基準はできました。プロに行きたいなら、柴原さんのレベルまで行かなきゃいけない……と」

──九州共立大は96年の大学日本選手権で準優勝。的場さんは98年春にリーグの首位打者となり、その年のIBAFワールドカップ日本代表に選ばれます。99年の春季キャンプでは、プロアマ交流で中日の練習に参加。初めてプロ野球に触れてどう感じましたか。

「プロのスター選手と一緒に練習させてもらって、すごく自信になりました。星野仙一さんが監督で、同学年の福留孝介とショートでノックを受けて。守備に関しては『やれる』と思いましたね。でも、バッティングは一軍半の選手でさえ力強さが全然違ったので、相当な努力が必要だろうと覚悟しました。このときに感じたのは、プロ野球選手には、技術はもちろん、練習に耐えられる体力が必要だということ。本当に体が強い選手が1億円もの年俸を稼ぐんだなと」

──99年のドラフトには、逆指名制度(大学・社会人選手は1球団2名まで自分の希望球団を宣言できる)がありました。そのなかで、阪神、中日、西武、近鉄が的場さんの獲得を目指します。

「当時の中日の星野仙一監督からも直々にお誘いいただきましたが、悩んだ末に阪神に決めました。担当スカウトの永尾泰憲さんの熱意に応えたいと思ったからです。春先には阪神にお世話になろうと決めていました」

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最終更新:10/18(火) 12:07

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