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25年経ても就活の滑稽さは変わらない 『何者』と『就職戦線異状なし』の共通点

リアルサウンド 10/20(木) 6:02配信

 「何もしなければ、何者にもなれない」。2010年に日本で公開されたロネ・シェルフィグの『17歳の肖像』の劇中に登場する台詞だ。逆に言葉を噛み砕いてみれば、“何者かになるためには、何かをしなければならない”ということだ。しかし、就活をしたところで、何者にもなれないことを、この『何者』という映画は教える。「就活終わったけど、何にもなれた気がしない」という台詞が出てくるように、将来への道筋ができたところで、それは何者かになれるチャンスが与えられただけに過ぎないのである。

 それなのに、具体的な将来のヴィジョンも抱かずに、ただ目の前にある就活に勝つためだけの行動を繰り返す登場人物たちを、何故か肯定的に捉える本作。観客はキャラクターへの苛立ちはもとより、ステレオタイプ的な描き方を選んだ映画自身に居心地の悪さを感じてしまうだろう。しかし、本作が取る所謂“どんでん返し”の方法は、ミステリー的に観客を騙す手法ではなく(むしろ佐藤健と二階堂ふみのやりとりによって暴かれる一連は、あまりにも劇的ではない)、それまで見てきた映画に対して観客が抱いた感情を、根こそぎひっくり返すという荒技なのだ。

 本作を観ると、すでに就活を終えた年代はおそらく、自分が就活に明け暮れていた時期と見比べてしまうことだろう。逆に、これから就活を迎える学生は、堪らなく恐ろしい気持ちに陥るに違いない。合同説明会からウェブテストを経て面接という、基本的な流れは同じでも、たった数年で就活を取り巻く環境が大きく変化しているようだ。

 時代を25年前に溯ろう。91年に公開された『就職戦線異状なし』という金子修介監督・織田裕二主演の作品があった。マスコミ業界への就職を目指す若者を描いたこの青春群像は、バブルが崩壊後に公開されたが、劇中には「売り手市場」とも呼ばれた景気の良い就職活動が描かれる。主人公たちは自分たちのなりたいものになるために、悩み、苦しみ、時には楽しみながら就職活動という荒波に呑まれていく。

 就活に没頭する大学生の青春群像という共通点を持ってしても、この『就職戦線異状なし』と『何者』の比較は避けられないだろう。この二つを見比べてみると、何十年を経ても変わらない、就職活動のあまりにも滑稽な部分が見受けられる。企業も嘘をつき、それに合わせるかのように学生も嘘をつく。いかにしてうまく嘘を付くかが、内定をもらえるための鍵であるかのように、何の恥ずかしげもなく堂々と騙し合いを繰り返すのだ。

 一見すると、この『就職戦線異状なし』の織田裕二のように、最終面接の場で「もう嘘をつきたくない」と正直に語り、獲得した内定を蹴ってしまうような痛快さがないので、『何者』は就活システムに迎合してしまっている印象を受ける。しかし、映画の構造上ですべてをひっくり返した後に待ち受ける、佐藤健の面接でのぎこちない1分間自己PRを聞けば、慣れないスーツを着た誰よりも先に、主人公は自分のなりたいものを見つけたという前向きな場面に見ることができよう。

 朝井リョウの作り出す物語は、リアリティを重視して構成され、ドラマチックな飛躍を生み出さない。だからこそ、文学的なカタルシスは発生するが、それが映像に還元されるときには否が応でも見せ方の創意工夫が必要となる。『桐島、部活やめるってよ。』では時系列の組み立て方や、ラストの屋上シーンでの大団円でドラマ性を高める一方で、『武道館』では実在のアイドルグループを配役しリアリティを高める。

 今回の『何者』では、主人公たち6人の就職活動の経過を淡々と連ねながら、「ポツドール」という劇団を主宰する三浦大輔らしく、その一連を学生演劇のように扇情的なものに見立てる。劇中では、いわゆる「学生演劇らしさ」を否定的なものに捉えているだけに、SNSによる人間関係の希薄さという現代劇の常套手段や、就活のシステムにはめ込まれていく若者たちの群像を嘲笑う。それらを批判的に、そう、劇中の佐藤健演じる拓人のように俯瞰で分析するかのように見せるわけだ。(久保田和馬)

リアルサウンド編集部

最終更新:10/20(木) 6:02

リアルサウンド

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